日本の山々の美しさと恵みは世界に誇る遺産。

日本人が昔から信仰の対象とさえしてきた聖なる山が「国民の祝日」として認められたことを心からうれしく思います。

登山家 松本市観光大使
田部井 淳子(たべいじゅんこ)

二〇一六年八月十一日は、国民の祝日として「山の日」が制定された最初の夏となります。社会人山岳会に入り岩や冬山縦走などを夢中で登っていたころ、特に北アルプスや南アルプス、中央アルプスは合宿の最適の場とし、正月休み、ゴールデンウィーク、そして夏合宿に選ばれた所でした。

新宿から夜行で松本まで乗り、松本電鉄に乗り換え、島々で降り、大きなキスリングの代金も支払ってバスに乗りこんだころの、あのワクワクする高揚感は、今も私の目に鮮やかに浮かんできます。

大学山岳部や社会人山岳部の多くの山好き組がキスリング姿で次々と並んでバスを待つ風景、この中に自分も入っているという誇らしさは、私の青春そのものでした。

大正池に着くころになると夜行で来て寝込んでいた人達も起き出し、バスの中の空気がザワザワとなり、いざ出陣にそなえるような空気に変わっていったことも今では本当になつかしいです。

はじめて上高地から涸沢を経て穂高に登ったのは21才の時、女子大の友人と二人で来た私たちの大冒険でした。あの大感動を忘れることが出来ません。

その後山岳会に入り屏風岩や滝谷の岩など涸沢をベースにして各パーティに別れて早朝に出発して行く、この合宿が毎年のようにくり返され、冬の屏風岩にも来れるようになっていったのは、女子会員を公平に扱ってくれた社会人山岳会の先輩のおかげでした。この経験があった後に一九七〇年、ネパールヒマラヤが解禁となったおかげで、アンナプルナV峰(七、五五五米)、続いてエベレスト(八、八四八米)が実現できたのだと思うと、本当にいい時代に生まれ、いい人達に囲まれ、育てていただいたのだ、ということをつくづく感じるのです。

その後、ヒマラヤや海外の遠征が続きましたが、50歳を過ぎてから再び国内の山歩きにのめりこみ、日本の山のすばらしさに開眼、夢中で岩を登っていたころは、花の存在にも気づかず、上へ、上へと迫っていきましたが、今は目指せ山頂よりも里山の美しさや多種多様の森林や高山植物におおわれた山や渓谷風景に心をうばわれています。

日本の山々の美しさと恵みは世界に誇る遺産だと思います。
あまりにも身近にありすぎた緑の山の存在を、改めて見直すことになったキッカケはヒマラヤはじめ海外の山々を歩き続けた結果だったとも思います。一九六〇〜七〇年代は山は特別の人だけが登る所と思われていましたが、今は山へのアクセスが良くなり、女性のトイレや更衣室も山小屋に出来、百名山ブームと共に山ガールの山への進出も喜ばしいものと思います。より多くの人に日本の山の美しさと恵みの多様さを知っていただき、日本人が昔から信仰の対象とさえしてきた聖なる山を、今「国民の祝日」として認められたことに対し心からうれしく思います。

この日を、山々に感謝する日として位置付けしていただきたいと思います。

プロフィール

登山家 松本市観光大使
田部井 淳子(たべい じゅんこ)
1939年 福島県三春町生まれ。
1969年 『女子だけで海外遠征を』を合言葉に女子登攀クラブを設立。
1975年 世界最高峰エベレスト8848mに女性として世界で初めて登頂。
1992年 七大陸最高峰登頂者となる(女性世界初)。
現在 年数回海外登山に出かけ、現在までに70か国以上の最高峰に登頂。20〜40代女性のための山の会MJリンク呼びかけ人。メディアへの出演や執筆、講演などを通じて山登りの楽しさを多くの人に伝えている。最近の出版物に『私には山がある〜大きな愛に包まれて』(PHP研究所)、『それでもわたしは山に登る』(文春文庫)などがある。