山の楽しさは多様だ。

内なる自分に語りかける哲学的な面もあり、時には宇宙や、神との対話も可能かと思える神秘もある。

人間が地球で一番ではないと知るだけでも素晴らしい。

俳優
市毛 良枝(いちげ よしえ)

 

 

『なぜかと聞かれれば…、すべて。』

 

「山のどこが好きなのですか」と、よく質問される。

手芸が好き、空想が好き、本を読んでいればどこにも行く必要がなかった少女の頃。
登山をやる自分の姿なんて想像することもなかった。
縁などなかった山にどうしてあんなにはまったのだろうか。
正直なところ答えは、「山のすべて」に尽きると思うが、求めに応じてとにかく答える。

単にスポーツでもない。
でも肉体に負荷を加えるからこそ得られる喜びの占める割合は大きい。
だからと言って辛いだけではなく楽しいから続けられる。
そして、楽しさは多様だ。
知的な刺激もあり、学問のように知識を増やす愉悦もある。
内なる自分に語りかける哲学的な面もあり、時には宇宙や、神との対話も可能かと思える神秘もある。
そしておのれの小ささを知る意味でも意義がある。
大自然の圧倒的な迫力の元、人間の存在の小ささはただ頭を垂れるしかない。
人間が地球で一番ではないと知るだけでも素晴らしい。

地道に愚直に一歩一歩踏みしめていく中で、辛いからこそ感覚は繊細に研ぎ澄まされ、森羅万象から受けた喜びが、こころの中で熟成し、ゆたかに自分を満たしてくれる。
五感に訴えかけてくるあらゆる刺激を受け取り、その時々の小さな達成感を重ねていくと、行けるとは思えなかったいただきにいつの間にかつく。
そのすべてが山登りの魅力だと思っている。

偶然のように山に分け入ったおかげで、知らない世界を知ることができた。
当時すでにずいぶんと大人になっていたが、そこからすべてが動き始めた気がする。
何だって、やろうと思えばやっていいんだ。
知らないことを知ることに年齢も職業も立場も関係ない。
そう思えたおかげで、その後いくつもの未知の楽しみを知ったが、今も心動かされるものの筆頭には山がある。

もちろん、人生には色々な局面があり、登りたい山にやりたい方法でいつも行けるわけではない。
日々の暮らしや仕事に加えて、近年は、介護という別の役割のため時間が取りにくくなっている。
親も年を取る、自分もいつまでも若くはない。そんな中でも、できる範囲でできる楽しみを見つけてバランスを取る。
その時にあった山を選んで、その時の自分らしい登り方をすれば、きっと山はそれなりの受け入れ方をしてくれる。
大好きな登り方で好きな山に登れる時まで、力を蓄えて機会を待とう。
いつでも準備は万端。
そう思えばこころはどこへでも飛んでいける。

プロフィール

俳優

市毛 良枝(いちげ よしえ)

静岡県出身

文学座附属研究所、俳優小劇場の養成所を経て、1971年、テレビドラマ「冬の華」でデビュー。
以後、映画、テレビ、舞台と幅広く活躍。
40歳から始めた登山が趣味であり、最近では登山の経験をいかした執筆活動や講演会なども行う。
登山をきっかけに環境問題にも関心を持ち、99年には環境省の環境カウンセラーに登録された。
その他、非営利活動法人日本トレッキング協会の理事を務める。