
山の日レポート
通信員レポート
ネパール・中国で発生した大規模土石流災害 現地レポート 4
2026.09.18
なぜ被害は想像を超える規模に?
今回の被害がなぜ想像を超えるほど大規模になったのかというと、前に述べたランタンりルン山の北斜面で起きた氷河や基盤岩盤の崩落が原因の大規模な土砂崩れ、それに続く複数の破壊的な自然現象、その地域の地質・地理だけでなく、歴史的、外交的、近代の貿易・商業的、観光・宗教・文化的な要素も関係していると言える。
歴史的背景
アルニコ(中国語:阿尼哥; 1245–1306)が象徴するように、人や貿易、仏像やその他の仏教の工芸品を通じたネパールとチベット間の人の行き来は、7世紀に始まった。当時のネパールはネパール盆地(現カトマンズ盆地)を中心に栄えていて、キャラバン隊を組んでネパールからチベットへ行き、交易を行っていた。また、ネパールからチベットにお寺や仏舎利、仏像などを作る技術者も多く移動していた。この交易の商人や技術者の移動は、ネパール盆地に栄えた中世ネワールマッラ王朝の時代にも盛んで、13世紀から数世紀にわたり活発で、ネワール商人は裕福で、17世紀にはラサに商館を構えていた。その数は32件もあった。

図1:17世紀に中国に行ったネパールの職人(アルニコ)阿尼哥の像
当時の街道は、今回洪水災害のあったトリスリ、ラスワガディ、ケルン、シガツェを経てラサへ至るルートで、ケルンルートと呼ばれ、クティ(ニャラム・トンラ)ルート(コダリ・タトパニルート)とともに二大交易ルートであった。その交易・商業は近世・近代のネパール・シャハ王朝になっても盛んで、1950年代に中国がチベットを併合するまで続いた。当時チベットで使われる金銀貨はネパールで造られ、チベットとの外交も良好だった。しかし、造幣された貨幣に不純物が混ぜられたなどの問題で、ネパールとチベットは戦争を起こしている。1792年の戦争は、中国がチベットの代理で戦争に参加し、この街道を進みベトラワティまで進軍した。両軍はトリスリ川を挟んで向き合ったが、トリスリ川が氾濫していたため中国軍はそれ以上進めなかったと言われている。そして川岸にある大きな石を話し合いの座台として使い停戦合意をしたと言われている。この石は「サンディ・ドゥンガ(条約の石)」と呼ばれ、歴史的に中国との友好条約のシンボルとされていたが、今回の洪水で流されたという報道もある。

図2:ラサのネワール商人はラサ・ネワと呼ばれる
ラサに商館を構えていた一族の末裔の友人が先祖から聞かされたラサ交易・キャラバンの往来のエピソード話を時々話してくれる。山間の狭いところでの山賊との戦い、ハゲワシから身を守ること、ヤクの皮で出来た浮船(加工したヤクの頭を前方に据えた、ヤクの形の船)でヤルルン・チャンポ川を渡ること等々。その話の中にはトリスリ・ボテコシ川が氾濫し出発が遅れたり、ベトラワティで足止めになったりとのことも。また、今回の洪水の報道で、ある年配の方は50年ぐらい前にもこの川は暴れたことがある、しかし、その時はこのような町がなかったので被害が少なかったと言っていた。つまりこの川は昔から氾濫することがあり、市街地もなく、人も少なくその被害が小さくあまり注目されていなかったので、住民にはその記憶もないということである。また、ベトラワティ、トリスリなどの住民は、「昨年の洪水のとき、川はそんなに暴れなかったし、被害もあまりなかった」と受け止めている。なるほど、今回の洪水に関する警報があったがそれを重視したり、避難したりした方は非常に少なかった。朝食の時間帯だったので多くはその準備及び仕事などに出かける準備に気が取られていたようである。一部の学校の校長らはその警報にすぐ反応し生徒らに登校しないように呼びかけ、被害にあわないようにすることができたようである。中には生徒らを助けたが自分が流された校長もいる。連絡網の制度があり、日本のようにそれが確立していればよかったのにと思うばかりである。
今回ラスワガディから洪水がベトラワティなどの開けた地にたどり着いたのは40-50分後と言われているので、警報がちゃんと機能し、人々がそれに従って避難行動をとっていれば町、家屋が流されても多くの命は助かっているはず。警報も役所などのデジタル掲示、学校、病院などには電話が主だったようだ。一般住民は直接の連絡がないので警報も「うわさ」で終わることがあり、その重要性は失われる。やはり、各地域でサイレンによる警報が必要である。これらの警報も川の水位が危険レベルに達したら鳴るシステムで今回のような大洪水に対応するバックアップ体制はないようである。多く場合、川岸にある測定器も流されたようである。また、山間の場合水位だけではなく洪水の速度、強度など規模についても測定し警報に含む仕組みが必要である。
外交的背景、近代貿易、商業の呼び水
1950年代におけるチベットに関する一連の出来事、とりわけチベット動乱、ダライラマの亡命、中国によるチベットの併合、その後チベットは中華人民強化国の1自治区になった。その時からケルンルートからの交易が途絶えた。この街道を使う人も減った。後にチベット亡命者が到来し、シャブルベシ近辺の村にチベット難民キャンプができた。この難民キャンプはカトマンズ、デリー、ダライラマが居るダラムシャラ、ひいては欧米諸国へ行く中継地・踏み台だったようである。また、一般の人をよそおってケルンからチベットへ往来するには目立たない、平時の検問も厳しくないルートだったようで、かなりの時間の間ここを往来する人らがいた。私は1990年にこのキャンプ場を訪れたとき、年寄の方、子供に若い女性数名がいた。青壮年の男性は見当たらなかった。
1970年代、中華人民共和国との新友好条約締結に伴い、中国援助でコダリ道路が作られ、タトパニを利用する商業ルートが確立され、中国との国境越えの貿易はそちらに集中され、ケルンルートは衰退した。転機が訪れたのは2015年のネパール大地震の時だった。地震で完全に破壊されたタトパニ検問所、友好橋とそこまでの道路復旧のめど立たず、再度ケルンルートを再開することになった。以降、急ピッチでインフラ整備された。それにビジネス界も反応し、このルートを利用して貿易を行うようになった。ティムレに警察、軍のチェックポスト、ドライポート、税関、銀行等が集中し、ホテルなどの宿泊施設・食堂もでき繁栄してきた。同様にシャブルベシも後述する理由も重なり目覚ましく発展した。
観光・宗教・文化的な要素
第二次世界大戦後ヒマラヤ登山のブームを受け世界中の登山家によりランタンりルン山も注目され、この街道を使う登山隊、キャラバン隊が増えるようになった。そしてランタンバレーの美しさに魅かれるトレッカーも増え、その拠点となるシャブルベシが繁栄し始めた。ただ陸路で行くときそこまで行く途中にある、軍のチェックポストの通行が難しい面があった。とりわけ毛派(マオイスト)が武装活動していた時期には現地住民さえ自由に動けなかった。1990年のころ私がシャブル村の現地調査からカトマンズへ帰るとき、夜遅かったのでその軍の管理地域を通行する許可がもらえず一晩車で過ごしたことがある。その後、政治が落ち着き、毛派も合法政党ととなり、ネパールも共和国になり、情勢が落ち着き、陸路の往来もだいぶ容易になった。遠征隊を組んでのヒマラヤ登山大ブームはさったが、ランタンりルン山の小規模・個人登山、ランタン・バレーなどのトレッキングが盛んで、世界中から観光客が来るようになった。

図3:ランタン・バレーとゴサイクンダ
この地域にはゴザインクンダという湖がありネパール・インドの文化のなかではこの湖は聖地となっており、巡礼者が絶えない。今年8月28日はメーラ(巡礼が訪れる満月日)で、巡礼する信者たちが多かった。
また、ネパールの公用暦ビクラム暦の5月(西暦8-9月)は南アジア文化では根強い慣習となっているカイラス山・マンサロバル湖の巡礼の月でもあり、世界中からご利益あるようにと巡礼する。一生に一度は巡礼するのが進められており、みんなの願いでもある。ネパール・インドからカイラス山へ行くルートはいくつかあるが、このルートが一番容易で安全でもあると言われ、世界中から巡礼者が多く集まってくる。今回の被災者の中に外国人が多い理由の一つはそれである。とりわけ、NRI(非居住インド人=第三国に居住し、その国の国籍とっているインド人・インド系の人々)の巡礼者も多かったようである。

図4:カイラス山とマンサロヴァル湖

図5:ティムレ村観光ガイドの写真
インフラ建設の様相
トリスリ川にはかなり前から水力発電所が建設され、国の電力需要の一端を担ってきた。さらに多く発電できるということで政府が中心に建設された(ている)発電所は3つもある。さらに民間、海外投資会社との共同で建設された(ている)大小の発電所は11ヵ所もある。この川にはかなり多く投資が注がれている。それに伴い、町も発展し、発電を建設、運営する人口も増えている。今回被災者の中にはこれらの発電所のなかで作業中の運営者、技術者、労働者が多く含まれる。そのうち一つの発電所の建設は韓国の会社が請け負っているので行方不明者のなかには韓国人も多いとみられる。同様に発電所の中に閉じ込められている人のなかにはネパール人のほか中国人、インド人も多いとみられている。また、シャブルベシ―ラスワガディ間の道の拡張工事も行われていて、その工事は中国の会社が請け負っているので、そこにも中国人の監督者、技師、ネパール人の技師、インド人の労働者が働いていた。その多くは行方不明である。中国はカトマンズーラサ間の鉄道建設もここを通すように検討し始めていると言われている。一部の測量も済んだというニュースもある。今後この計画はどうあるのだろう。

図6:トリスリ川とその支流沿いの水力発電所
中国との陸路貿易の主幹となったこのルートは商業的にかなり重要になっている。物資を運送する運送会社のトラック、地域住民、商人、観光客用の車・バス・二輪車なども頻繁に往来する。それを支えるホテル・食堂、その他サービス業も充実してきている。それらの拠点はやはりティムレ、シャブルベシ、ドゥンチェ、ベトラワティ、トリスリ、ビドゥルなどの町で、まさにこれらの町・地域がいま大きな被害を受けたのである。
2026年9月11日
マハラジャン、ケシャブ・ラル
地域農林経済学会副会長
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