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山の日レポート

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通信員レポート

ネパール・中国で発生した大規模土石流災害 現地レポート 5

2026.09.24

全国山の日協議会

科学委員会委員 現在カトマンズに滞在中であるマハラジャン、ケシャブ・ラルさんのレポート

今までの報告では、ネパール・中国で発生した大規模土石流災害について、自然災害として複数の現象が一緒に起き、それが国境地帯という場所、その複雑な地理・地質状況に歴史的背景、外交的、近代貿易・商業的、宗教・文化的、観光的、インフラ整備の様相などが相まって被害が非常に大きくなったことについて述べ、その被害者(死傷者、行方不明者)を中心にその時点での現状を報告した。今回は被災者のレスキュー・人命救助、避難、救援物資の配布状況及び生活状況について述べることにする。
大規模な土石流「ヒマラヤ津波」が起きて膨大な被害を及ぼしているということが知りわたり、政府の中で災害対策本部が設置され、大臣級の人が指揮を執り、軍、武装警察、警察を中心のレスキュー・救援活動が開始された。災害が起きた地域では道路、橋等交通のインフラが完全に破壊されたのでヘリを中心にレスキュー・救援活動が行われた。その際、軍および政府の命令でヒマラヤ遊覧ヘリ、ヒマラヤ登山者遭難に使われる企業のヘリなどすべて導入された。トリスリの駐屯地をレスキュー・救援活動の基地とし、被害を受け、孤立地になっていた場所に救援物資を届け、そこから老人、体の不自由者、病人、妊婦・女子、子供などを乗せ、病院・避難所へと運んだ。支援物資として、米、ダルスープ用の豆類、食用油、塩、砂糖、玉ねぎ、ジャガイモなどの野菜類、インスタント麺類、ビスケットなど食用品が中心で、洋服、布団類、女性用の衛生用品などが届けられた。ヘリによる救援活動はラスワガディ、ティムレ、シャブル、ドゥンチェ、ラムチェ、カリカ、ベテラワティの対岸の村町などボテコシ川流域の孤立地が中心だった。その複雑で狭い渓谷を1日に5往復も飛行しスムーズに活動を行った。また、ウッタルガヤ、デビガト、ビドゥル、ガルチなどの被災地へは迂回しながらも陸路によるレスキュー・救援活動が行われ、それが概ね順調だったと受け止められた。そのためか、当初、インド、日本等友好国からの緊急救援隊の派遣援助の申し出をネパール政府は断っていた。

図1:ヘリによるレスキュー・救援

図2:カトマンズ盆地ラリトプール郡ハリシッディ地区における住民による支援物資収集

なぜネパール政府が外国からの緊急救援隊を受けない決定したのかは不明で、幼稚な決定だと内外から批判されたが、私は以下の理由があるのではとみる。まず、ネパールは王国から民主化国、連邦制共和国となり、「人民による、人民のため、人民の政府」と政治家によって叫ばれて約30年たったが大多数の国民の生活は一向によくならず、生きるために外国へ出稼ぎに行き、多くはそこで危険、汚い、きついとされる底辺の仕事につき、日夜働き、いくばくかの貯蓄を故郷の家族を養うために送金し、なんとかやりくりして生きている。この送金額は国の外貨獲得の一番の収入源で国民総生産の3割にも上る状況であるがやはり国民の生活にはあまり意味のない数値にすぎない。このような状況をZ世代の国民が受け止められなく、その原因は腐敗した政治・政府及び多くの政治家、役人、それを悪用する一部の商人だと理解し、このことに同意もあった。クリーンな政治、政府・役人による国民へのサービスデリバリの改善を求め、運動を起こした。それを切っ掛けで出来た現政府は、レスキュー・救援活動を素早く行い、結果を早く示したかったのではないかと思う。当初のレスキュー・救援活動が案外スムーズにいったことで政府にその自信が付き、この災害の規模をきちんと把握する前に、「できるんだ」、「やるんだ」との勢いでそのような決定したのではと思う。それはやはり「若気の至り」と言わざるを得ない。しかし、被害の大きさなどでレスキュー・救援活動の難しさのため、三日後に外国の援助を受けるようになった。国民からこの三日で救える命があったはずだと声が上がっている。

図3:発電力、川原における軍によるレスキュー・救援活動

図4:被災地で川を渡るためにトィン(ロープ渡)を活用

図5:ドゥンチェから救援された方の健康診断

図7:水力は伝書のトンネルから従業員の救助

一方、日本と同様、大雨、洪水、土砂崩れ、雪崩などの自然災害が多いネパールは毎年大小の災害を被る。その都度、内外から支援物資・義援金などが届くが、支援活動・受益地にムラができ、必要な場所に必要な支援が届かないことがしばしばだった。難しいことではあるが支援活動の窓口の一本化が課題になっている。その上、支援活動にも腐敗がはびこっているとの報道も常である。上述したように現「Z世代の政府」はそのことも念頭に自力で可能なことは外国に頼ることなく実施し、「やればできるんだ」ということを示したかったのかもしれない。
政府は国内各業界、個人に寄付を呼びかけ、かつてなく義援金・支援物資が集まっている。被災後2週間もたっている今日、シャハ首相は、「内外の援助・支援をもって不足なく被災者の支援ができる」とソーシャルメディアで述べた。一国のリーダーとして批判が多いが、国民との対話にこの首相は常にソーシャルメディアを使う。相互扶助の理解のもと、国内で義援金・支援物資を集めること、それでは不足し対応できず賄えない資金・物資・技術は外国から素早く受け入れ、人命救助などを含め被害を最小限にとめることが最善のやり方だろう。一国のリーダー・政府にはそのことが求められる。ちなみに国内では本日までに金融業界・製造会社を筆頭に企業団体・個人による寄付金が約50憶ネパールルピーにもなっている。かつてない数字だと言われている。これとは別に支援物資も多く集まった。

さて、災害後被災地の住民の生活はどうなっているのだろうか気になる。そのことについて孤立地になったボテコシ川流域と、被災しながらも陸路でアクセスできるトリスリ川流域の町村で違いがあった。後者は開けた地で、被害を受けなかった地域・住民も多く、域内でボランティア活動に参加できる人も多く、カトマンズ等域外からのアクセスも途絶えることがなく、レスキュー・救援活動は容易で早くにもその活動がはじめられた。電気も早く復旧した。軍・武装警察・警察は人命救助を優先しての活動だったが、政府、各政党、各団体、地域住民によって支援物資の収集・配布、避難所の設置・運営などが素早く始まった。カトマンズ等都会でも翌日から募金、支援物資の寄付を集めることがはじめられた。私の住む地域でも市会議員・区長、その他ボランティアらを中心に寄付が募られた。災害後、4日目にして、トリスリ町の中に設置されえた支援物資集める倉庫には、食用品は多すぎて置く場所がなくなっていた。なので食用品ではなく、衣類、寝具類、衛生用品、薬が不足気味という状況だった。その2日後には病院・薬局業界の働きで一般薬、衛生用品も集まったようで、避難所ではボランティアで若い医者も集まり、一般診察、カウンセリングなども行っていた。古着もたくさん集まり、避難している人たちは好みに合う選り取りの服を探し受け取っていた。メディアの取材に答えている人も、食事には問題が無く、後は災難の時だから避難生活でしのぐしかないと肯定的だった。時には、トイレ、飲み水、料理用ガスについて改善されればいいと注文つける人もいた。この報道には私もある意味では安心した。
日本と違って避難所は簡易テントで、雑魚寝、炊事は簡易かまど・ガスストーブで、食事はネパール版定食―ダル・バト・タルカリ・アチャル(ダルスープ、ごはん、野菜などのおかず、漬物)で、仲のいい人同士で集まり食べる。共同トイレも簡易で、小便なら男性は野外でも。一日中することがなければ頭痛・腹痛などもあり得る、そのための薬やカウンセリングがあり、純朴な方々はこのような災難時には文句は言わない。被害を受けながら、中には家族を失いながらもこれだけ明るく、満足げな表情ではメディアに対応できる(そのように対応できる人を選び取材しているとしても)皆さんに敬意を表したい。避難生活が長くなればその疲労がたまり別の問題が出るかもしれない。今後はそのケアも必要となる。
一方、ボテコシ川流域で洪水に見舞われた町や村の状況は異なっていた。同じベトラワティ地区の中でも、橋が流されてしまい、対岸の地域では最初のうちは支援物資が届いていなかった。その住民たちは、報道で伝えられる救援や支援の話とは自分たちが無関係だと感じ、苛立つこともあったようだ。ヘリ一機で運べる物資は数百キロで、避難所や病院へ運べる人数も数人なので、被災して待っている人々の気持ちは理解できる。天候や地形のためヘリが飛べない地域の被災者についてはなおさらだ。この地域では送電網や通信網も完全に破壊され、数日間は真っ暗な中で夜を過ごしていたようだ。多くの発電所がある場所で電気が使えないというのは皮肉な話だ。その地域のある区長は太陽パネルを担いで村々を回り、住民が携帯電話を充電できるようにしていた。災害時には情報が重要で通信網を確保することが日本でも課題になっているが、この区長のボランティア活動にも敬意を払いたい。
ところで、災害から8日後の時点で、ドゥンチェのようなヘリが比較的容易に着陸できる場所の支援物資の集配所はやはり食料であふれていた。この流域の被害状況はまだ十分に分かっていないため、救援・支援物資が行き届いているかどうかは断言できないが、自然が多い地域で従来の生活に慣れている人々であれば飢えている人はいないだろう、と想像してみた。その後、そのような地域でも中国が手配したドローンで、一度に60キロの物資を届けられるようになった。また、ベトラワティ川でも軍によって急ピッチでベイリー橋が作られ、対岸の地域でも陸路で物資が運べるようになった。同地域の住民は軍の対応に満足し、称賛していた。この流域では、ラスワガディ、ティムレ、シャブルベシのように家屋や役所、ホテル、商業施設、発電所などほとんどが流されたため、支援物資を届ける必要がなかったかもしれない。そもそも人口密度が低いこともある。いずれにせよ、トリスリ川流域よりは少し遅れたが、ここでも救援・支援活動は問題なく行われていると言えるだろう。

さて、この大災害で首都カトマンズの人々の生活にどのような影響があるのだろうか。被災地において支援物資は不足していないことは上述した。その物資のほとんどはカトマンズをはじめとした都会から調達されたのである。それでもわかるようにカトマンズ盆地をはじめとする都会では生活物資が不足する状況はなく人々の日常生活には特に支障がない。ただし、トリスリ川の大洪水によってカトマンズからチトワン、ビルガンジを経由してインドへ通じる道路の途中、クリシュナ・ビールというところで大規模な土砂崩れが起こり、一部の道路が流され不通になった。この場所は毎年雨期には大小の土砂崩れが起きるところであり、それなりに開通するに対応できる機械が近くに置いてあり、インドからの物資運搬に障害がないようにされる。しかし、今回はカトマンズ盆地では料理用プロパンガスが不足し騒動が起きている。多くの販売店ではガスを求める長蛇の列ができた。列で並べない人には5-7日後のクーポンが配布された。このことが市民の生活に直接影響を与えた。同時にレストラン、食堂などの営業にも影響を及ぼした。

ところが、中東を舞台にした米国、イラン、イスラエルなどの争いで世界中燃料問題が起きた時には小さいガスシリンダーをもってガスを配給し、一種の「割り当て」で調整し、不足の問題が生じなかった。さらに、クリシュナ・ビールの道を通れないので、迂回する山道でガスを運べるようにタンクローリーではなく、南の町でシリンダーに入れ替え、小分けし、ミニトラックで運べるようにした。にも拘わらずカトマンズでガスが不足することについて問題になり、それに敏感に反応した担当大臣はガス業界と衝突し、辞任に追い込まれた。会見場を涙流しながら去った大臣はガス業界の協力は得られなかったと言った。業界の代表はすぐに反論した。世界中で燃料不足の時調整できたことが今回なぜできなかったという問いが残る。Z世代政府の大臣の政治経験の浅さもあるかもしれない。そこで、今回は災害が起きたのでいつでもガスの供給が滞ってしまう可能性があるという社会的大衆心理が働き、昔日本でオイルショックの際、トイレットペーパーの騒動が起きたようなことが起きたふしもある。そして南部から入ってくる食品等生活必需品は国会でも取り上げられるほどジワリと値が上がっている。しかし、本日ガス屋さんの前を通ったがトイレットペーパーがなくなっている。
生活の感じとしてカトマンズでは、一般的に家庭ごとに一週間から一か月分の燃料や食用品などの生活必需品の備えがある。そして政府や業界の関係者によれば、市場には店舗や問屋、倉庫を含めて約3か月分の需要をまかなえるくらいの品があり、物不足はないので市民には落ち着くよう呼びかけている。また、政府は値上げを操作する業界や商人には厳しい罰を与えると明言している。警察などを使って市場の監視もしている。
一方、ラスワガディ税関を使って中国から輸入される品物には、リンゴなどの果物やニンニクなどの食用品もあるが、多くは日用品、衣類、靴、アクセサリーなどである。運送会社を経営している知り合いによればそこで、貿易・輸送に使われるコンテナは約200個あり、今回の洪水で4割ほどが流され、2割は中国の国境近くで動けない状態になっている。そして残りの2割はムスタン方面に回された。なので、実際に使えるコンテナは約2割しかないとのことだ。別の知り合いの輸入業者は、自分たちが輸入した多くのものが流され、大きな被害を受けていると言っている。一か月後の全国的な大祭―ダサインの時期には、中国製品が品不足となり値上がりすることが十分に予想される。これは低所得層の人々にとってはかなり痛いことである。ネパールのことわざ「ダサインはダサ(ダサインの祭りは悪運)だ」が頭をよぎる。

2026年9月17日
マハラジャン、ケシャブ・ラル 
地域農林経済学会副会長

図8:9月17日の朝パタン市内マハラクシミ寺を参拝する市民

図9:9月17日パタン市内の品があふれる野菜市場

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