閉じる

ホーム

  •   
  •   

閉じる

山の日レポート

山の日レポート

通信員レポート

「道迷い遭難を防ぐ」登山講習会の再始動レポート

2021.11.04

全国山の日協議会

蠅帽子嶺及び蠅帽子峠

全国山の日協議会個人会員 片岡泰彦さんからの登山講習会のレポートをご紹介します。
▲▲▲
ここ2年の間、多くの山岳団体が講習会やイベント実施の可否に悩み、微妙な判断に迷いながらも、コロナ感染防止の観点から企画を中止してきたものと推測します。実践講習会の性格上、グループが密集したり声を掛け合うことが必要で、山中で黙ってデイスタンスを保っていては講習にならず、山に入るパーティとしての意思疎通が保てない。
10月に入り各種規制が解除され始めたので、30日(土曜日)に奥美濃の蠅帽子嶺及び蠅帽子峠において久々の講習会を開催した。

藪・倒木・落ち葉・獣道に阻まれながらも、先頭を交代しながらのナビゲーション訓練。

踏み跡に隠れた古いお地蔵さん

国土地理院の地形図にも、山と高原地図の「白山」地図にも地名記述はなく、蠅帽子嶺は1037.3mの三角点があるのみ、蠅帽子峠は鞍部に向けて途中で消滅する登山道表示があるが峠名の記載はない。一般道に慣れた登山者が辿るには、慎重さと技術が必要となる。今回、読図技術・ナビゲーション技術向上を図るため、「岐阜百秀山」著者の清水克宏氏が奥美濃の地味で野生味に溢れるこの山域を選んだ。土曜日の秋晴れ好天にも関わらず人の気配は薄く、まさに野生の山。昭和年代には明確だったという登山道も、根尾西谷川を渡る橋も今はなく、人の痕跡を覆い隠そうとする自然の逞しさを感じた。

踏み跡に隠れた古いお地蔵さん。台座に文化5年(1808年)とあるので水戸天狗党を見て いたのかもしれない。

根尾西谷川に橋はなく渡渉は必須

初めての渡渉に少し緊張する参加者

慎重にゆっくりと歩みを進める参加者

蠅帽子峠の群像こぼれ話

峠は鄙びて、野生に飲み込まれつつあるが、150年程前の江戸時代には、美濃と越前を結ぶ峠として多くの往来を見ているに違いない。美濃側最奥の集落だった根尾大河原は、廃村になって久しく、一面のススキが原になっている。
NHK「晴天を衝け」に登場した武田耕雲斎(津田寛治配役)首領の水戸天狗党が、幕末の元治元年(1864)に蠅帽子峠を越えている。
那珂湊の戦いで敗れてから、内山峠、和田峠他多くの中山道の峠を越えるのだが、十分な兵站もなく賊軍追討の御触れが出る中、厳しい行軍だったと思われる。
尊皇攘夷を貫くための京都へ上がる東海道や琵琶湖岸には既に追討軍勢がいるので、やむなくこの険阻な峠を越え、防御が弱い越前に抜けたという。
それも雪の降る12月4日に、800人を超える軍勢と大砲・鉄砲・糧秣などの輜重を、越前に移動させた統率力は並大抵ではない。
当時は籠や馬が通れる道が峠を越えていたと推測。
越前に入ると、頼みの綱であり拠り所の徳川慶喜が、自ら勅許を受け、大軍を率いて鎮圧平定に向かってくる報に接しては、降伏するほか術がなく、後日敦賀において352名が斬首された(桜田門の怨念を晴らすため彦根藩士が太刀取りに志願したのも歴史だろう)。
苦労を重ねての長旅だっただけに哀しく痛ましく思う。
道を繋ぐ役割を終え、人知れず藪に埋もれていく峠も多かろう。
蠅帽子峠もその一つかもしれないが、歴史は残ってほしい。

蠅帽子峠に佇むお地蔵さん。これは明治初年のもの。

比較的新しい標識。蠅(アブ)が多いので帽子が必要な峠、また法師が這って越えたという 謂れがあるようだ

注)「道迷い遭難を防ぐ」登山講習会は、日本山岳会東海支部・技術向上委員会が企画、
2021年10月30日に実施した催しです。

RELATED

関連記事など