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山の日レポート

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通信員レポート

【連載】地図(地形図)についての雑記帳 おわりに ~イギリス領インドの地図をめぐって~

2022.08.01

全国山の日協議会

最終回

 数回のつもりで始めた連載が、意外に長くなってしまった。地図を巡る私的でとりとめのない雑文におつきあいいただいた方々には、感謝申し上げる。

 最終回は番外として、イギリスの植民地であったインド(現在のパキスタンやバングラデシュなどを含む)の地図と、その制作過程について、以前から感じていたことを記してみたい。
 先にもふれたが、1980年代ごろまで南アジアの諸国では、中縮尺の地形図は一般に入手が困難で、特にヒマラヤのような国境地帯のものは、手に入れることはまず不可能だった。
 登山の際には、政府派遣の連絡官が、該当地域の地図を持っていたが、見せてはくれてもコピーはできなかった。付言すれば、それらの国では、軍の施設や空港はもちろんのこと、鉄道やその関連施設、橋などの写真撮影も原則禁止で、うっかりカメラを向けようものなら警察官に捕まり、フィルムを没収される可能性もあった。すでに衛星写真が出まわっていたのだから、いささか時代遅れではないかとも思ったが、イギリス統治時代の地誌情報に関する厳しい規制が、まだ生きていたのだ。

ネパールヒマラヤ調査プロジェクト作成の地形図

 インドに正確な地図作成を任務とするインド測量局が置かれたのは1767年である。もともとは貿易会社である東インド会社が、カルカッタ(現コルカタ)、ボンベイ(現ムンバイ)、マドラス(現チェンナイ)の3支店体制をとっていた時代で、1857年の大反乱(いわゆるセポイの乱)が鎮定された後、インドが正式にイギリスの植民地になる100年近く前のことだ。
 測量局は1802年には、インド全土の地図作成の基本となる大三角測量を、その南端から開始した。三角点とは、私は子供のころは、山の頂上を示す印だと理解していたが、本当は三角測量の基準点であり、そこにおかれる標石をも意味する。
 三角測量の進展に大きな功績があったのが第3代長官ジョージ・エヴェレスト(在任1830~1843年)で、のちに西ベンガル州とネパールの国境からも遠望される、地図番号ピークⅩⅤの山が世界最高峰と判明したとき、現地名が不明だったことから、エヴェレスト山と命名されたことはよく知られている。

ネパールヒマラヤ調査プロジェクトの地形図をもとに作成・販売されていたトレッキングマップ

 それにしても本来は貿易会社であるものが、その取引相手であるインド全土の正確な地図作成を構想し、実施したとは、どういうことだったのだろう。18世紀から19世紀前半にかけてのインドといえば、北部の大部分はムガール帝国の領域だったが、他にもヒンドゥー教徒やシーク教徒の王族が支配する多くの国があり、またそれらの国家の支配がおよんでいない、広大ないわゆる「部族民地区」もあった。
 そのインド全体の正確かつ詳細な地理情報を取得、集積し、将来的には植民地として支配するという狙いが18世紀後半からすでにあったとすれば、空恐ろしいとしか言いようがない。ついでに言えば、地図とともに統治の基本資料となる統計を全国規模で収集する本格的なセンサス(国勢調査)が始まったのは、植民地統治が正式に始まったのちの1870年代からである。

インド測量局作成のネパールの地形図 記号説明部分

 ちなみにネパールでも、まだラナ家が封建的な専制支配をし、外国に対して鎖国政策をとっていた1920年代に、インド測量局が全国土を対象に、インドと同じ規格での地形図作成を開始している。
 植民地時代のインドで作成された基本的な地図は、1マイル(約1609メートル)を1インチ(約2.5センチ)に縮尺する(数値上は62500分の1)、いわゆるマイル・インチの地形図で、等高線の間隔は100フィート(約30メートル)である。この規格にもとづく地図は、南アジア諸国では、独立後もしばらく使用されていた。マイル、ヤード、フィート、インチというイギリスの長さの単位は、当時の本を読むために私も覚えようとしたのだが、なんとも面倒である。さすがに最近はメートル法が使われるようになり、地形図の縮尺も基本は5万分の1になったようだ。

 マイル・インチの地形図には、本来の地形や植生、道路、鉄道、集落といった要素だけでなく、警察署、郵便局、電話局、学校、寺院といった施設も記載され、道路は幅員によって何段階かに区別されているし、森林には広葉樹、針葉樹といった区分だけでなく、保留林、保護林の記載もある。要するに地域の社会的、経済的情報も可能な限り詰め込まれているのだが、この考え方は、明治以降の日本の地形図作成にも採用されたようだ。

日本の国土地理院の地形図

 それに対してスイスの地形図には、これらの社会情報とでもいうべき要素は、ほとんど盛り込まれていないし、ドイツ・オーストリーによる「ネパールヒマラヤ調査」プロジェクトの地形図も同様である。どうしてこのような違いが出てきたのか、きちんと調べたわけではないのだが、地図つくりの前提となるポリシーの違いにあるような気がしてならない。ちなみに日本の地形図には、社会・経済的な記号が多く記載されており、イギリスに近いタイプである。

スイスの地形図 (記号等の説明欄なし)

 イギリス統治時代のインドでは、地図ばかりでなく、国勢調査事務所、人類学調査局、言語調査局等々の公的機関によって、国家の事業として、各種の統計や、多様な民族の言語、宗教、社会などについての調査研究が進み、膨大な情報、資料が蓄積されていった。
 測量局の仕事は、そういった調査研究のなかでも、もっとも早くから始められたといってよいのではないか。正確な地図は、国家の統治、道路や鉄道などのインフラ整備の基本であるだけでなく、軍事面においても極めて重要な情報としての意味を持つ。だからこそインドでは、地図は国家によって厳しく管理されてきたし、日本でも第2次大戦期まで、陸軍の管理下に置かれていた。

日本の陸軍陸地測量部がなんらかの方法で入手したインドの地形図の記号部分を翻訳し、そのまま製版・作成したいわゆる外邦図の記号部分

 植民地時代、あるいはそれ以前のインドにおいて、測量をはじめとする現地での作業がどんなものだったのか、またその成果物である地図が、治安維持を含む統治の実務を担った官僚や、軍事作戦にあたった軍人などにとってどのような意味を持っていたのか、私などの想像を超えるが、たとえばキプリングや、オーウェル、フォースターら、当時のインド(現在のミャンマー、当時の呼称ではビルマを含む)に滞在していたイギリス人作家の小説やエッセイからもかいま見える。
 植民地時代にイギリス人が作成した地図や統計資料、民族誌などには、南アジアの文化、社会の研究者のはしくれである私自身、おおいにお世話になってきたし、その成果は高く評価するものだが、同時に複雑な思いを抱かざるを得ないのも事実である。

( 全17回 完 )

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