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山の日レポート

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自然がライフワーク

『円空の冒険』諸国山岳追跡記―総集編(前編)   清水 克宏

2025.12.01

全国山の日協議会

円空の追跡を終えて

 円空の足取りを追いかけ諸国を巡ってきた『円空の冒険』追跡も、長良川河畔での入定をもって終わりを迎えました。追跡を始めたばかりの頃は、その生涯についても、造像についても、そして山岳修行の背景となる修験道についても基礎知識程度しかなく、特に円空が造像活動を始めた初期については、手がかりもわずかで、途方に暮れたものです。しかし、円空が修行を行った山岳をたどり、像が置かれた土地を尋ね、各地の図書館に籠って郷土史などの文献を精細に見るというパターンを繰り返していくと、歴史の奥底に埋もれていた稀代の冒険家としての円空像が浮かび上がってきました。総集編では、これを2回に分けご紹介します。

円空の生い立ち
 円空は、江戸前期の寛永9(1632)年、美濃国(岐阜県)に生まれています(貫前神社旧蔵『大般若経』奥書「壬申年生美濃国圓空」)。
 その生い立ちについて、伴蒿蹊著の伝記集『近世畸人伝』(寛政2(1790)年刊行)には、「僧円空は、美濃国竹が鼻(羽島市竹鼻町)といふ所の人也 稚きより出家し、某の寺にありしが、廿三にて遁れ出、富士山に籠り、又加賀白山にこもる。」と記されます。生誕の地については、ほかにも諸説ありますが、円空が、多くの試作を重ねながら造りあげた十一面観音菩薩立像を中心にした中観音堂を、程近い中村(同市上中町中)に建立していることからも、濃尾平野の長良川と木曽川に挟まれた地域(現在の岐阜県羽島市)に生まれたことは、ほぼ間違いないと考えられます。美濃国ながら木曽川をはさんで尾張国に接し、尾張藩領が大半を占める土地でもありました(図1)。

 同地は、長良川と木曽川に挟まれた水害の多発地域ですが、災害史をひも解くと、円空が生まれ育った江戸時代前期は、特に頻繁に洪水が発生し大規模な被害が出た時期だったことがわかります。これは尾張国が木曽川左岸に、慶長14(1609)年にお囲い堤といわれる堅固な堤防を造ったため、もともと地盤が低く、堤防も脆弱な美濃国側がしばしば破堤するようになったためともいわれます。その中でも、慶安3(1650)年9月の通称「ヤロカ水」の洪水では、一帯で数千人の死者が出ています。
 円空は和歌に、「予(わが)母の 命に代る袈裟なれや 法(のり)の形(みかげ)ハ 万代(を)へん」と詠んでおり、上記『近世畸人伝』の記述も合わせると、幼くして母を亡くし、出家したことが分かります。記録には残っていませんが、母を水害で亡くした可能性も高いのではないでしょうか。

図1:『美濃国十八郡之内支配所絵図』明治2年、名古屋藩の美濃国における支配所を新政府に提出した写し(愛知県図書館蔵)の中島郡、羽栗群部分に加筆したもの

若き日の伊吹山山岳修行

 円空は幼くして出家したものの、寺を出奔し、寛文3(1663)年、32歳頃から造像活動を始める前は、蝦夷小幌の岩屋で彫った観音菩薩坐像(現有珠善光寺蔵)の背銘に「うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 圓空」と記しているように、江州(滋賀県)伊吹山の行場(修行の場)のシンボルである平等岩周辺で、山岳修行をしていたのは確かなようです。
 伊吹山は、主に石灰岩で構成される山で、標高は1,337mながら、日本海からの季節風の影響で日本有数の豪雪に見舞われます。役行者や、白山を開いた泰澄が修行したとも言い伝えられる古くからの霊山で、山頂を弥勒の世界とする信仰があり、江戸期には、女人禁制の弥勒堂が信仰の中心となっていました。円空は、伊吹山の山中にある、太平寺集落の観音堂に十一面観音菩薩立像を残しています。かつては伊吹修験の中核寺院のひとつであった太平寺も、戦国時代の戦乱に巻きこまれ、円空当時はすでに廃絶しており、同集落には、中之坊、円蔵坊など石灰採掘権の株で命脈を保つわずかの坊が残るだけで、正式な修験者としての修行を行える環境にはありませんでした。しかし、太平寺集落から山上の平等岩にかけては、石灰岩の断崖となった不動の滝など、厳しい山岳修行を行うには格好の場所でした。
 円空が寺を出奔し、伊吹山に身を置いた理由は明らかではありませんが、幼い頃のたび重なる水害の災禍を深い心の傷として残したまま、寺で祈っても、災害は相変わらず起こり、母が成仏できているのかも定かではないことにいたたまれず寺を飛び出し、僧でも修験者(山伏)でもない、「何者でもない」存在のまま、ひたすら肉体を追い込む山岳修行に明け暮れていたのではないでしょうか。噴火間もない有珠山に登頂し、後年に飛騨山脈の山々を登攀した実力は、この頃身に着けたと考えられます。
 伊吹山の頂きからは、遠く白山や、御嶽、そして乗鞍岳をはじめとする飛騨山脈の高峰を眺めることができます。そのうち白山(2,702m)は、十一面観音菩薩が本地仏(神の正体とされる仏)とされ、長良川の源の山と考えられていました。さらに、円空当時、その長良川が大きな洪水をたびたび起こしていただけでなく、天文16(1547)年から万治2(1659)年の最後の大噴火までの100年あまりの期間は、白山の非常に活発な火山活動がみられた時期でもありました。円空は終生白山を信奉していましたが、その信仰をとらえるうえで、当時の白山は「怒れる山」であったことを意識しておく必要があるでしょう。

画像1:伊吹山山頂から飛騨山脈方向を仰ぐ。伊吹山は古くから弥勒信仰の山だった

造像の開始

 円空の造像活動が最初に確認できるのは、美濃国郡上郡根村(現岐阜県郡上市美並町根村)神明神社の、棟札から寛文3(1663)年11月6日に造られたことが分かる八幡大菩薩、天照皇太神、阿賀多大権現の神体3像です。これを皮切りに、円空は、同年から翌4年頃(寛文前期)にかけて、郡上郡南部(現在の郡上市美並町周辺)に、各集落を網羅するように置かれた社に神体像を造っています。置かれた社の多くは、「郡上郡四十九社」と呼ばれる、白山を開山した泰澄の創建伝承を持つ社でした。これらの社は、泰澄に連なる家系と伝えられる社家の西神頭・東神頭両家によって祭祀されており、おそらく、円空は、伊吹山から長良川沿いに白山に向かう往来に、両家と縁ができ、神体像を造ることになったのでしょう。ただし、この時期円空が造っていたのは要請を受けた神体像が中心で、後年のように人々の苦しみや願いに寄り添いながら造像するには至っていません。
 また、美並町の南に接する高沢山(354m)周辺にも同時期の極初期の円空像が残ります。高沢山の東麓を流れる長良川の支流津保川沿いには飛騨へ向かう古い街道が通り、その山中にある真言宗の日龍峯寺は、『日本書紀』では異相の逆賊とされ、飛騨では観音の生まれ変わりとされる豪族・両面宿儺が創建したと伝えられる古寺です。円空は早い時期から飛騨の地への憧れを持っていたのではないでしょうか。

蝦夷地の山岳に挑む
 円空は、寛文5(1665)年には、津軽(青森県)を経由して蝦夷に向かっています。当時の蝦夷は、渡島半島の最南端に津軽海峡に面して和人の住む松前藩があったほかは、アイヌの住む「蝦夷地」として、知行主である上級家臣らが交易の拠点となる「商場」を年1回訪れる以外、和人の往来は厳しく制限され、地理的な把握はほとんどされていませんでした。円空が蝦夷に行ったのを「遊行のため」とする説がありますが、そこで引用される文献は18世紀に商人に交易を代行させる「場所請負制」に移行してからのもので、円空当時は遊行などできる状況にはありませんでした。

画像2-1(左):国立歴史民俗博物館蔵 『正保日本図』蝦夷部分(正保元(1644)年)   2-2(右):国立公文書館蔵 『天保国絵図 蝦夷』(天保9(1838)年)   円空の生きた江戸時代前期は、蝦夷地の地理把握がほとんどされていなかったことが分かる。

 松前藩の全60巻に及ぶ史料集『福山秘府』によると、当時の蝦夷は、寛永17(1640)年に有史以来鎮静化していた内浦山が大噴火して山体崩壊に伴う山津波で700名に及ぶ犠牲者を出し、さらに、寛文3(1663)年には有珠山も有史以来の大噴火を起こすなど、大地動乱の時代に入っています。そして、円空が蝦夷に向かう寛文5年の春には、当時不吉の兆しとされた彗星が現れ、松前藩日本海側の上ノ国太平山(大平山)が鳴動して天河(天の川)の河口部が陸になってしまい、「按、是皆不祥之兆也(あんずるに、これ皆不祥の兆しなり)」と、さらなる災禍におののく状況にありました。『福山秘府』の藩内の寺社を調査した「諸社年譜並境内堂社部」には、まさにこの年、日本海側の11箇所に新たに堂が建造され、これらを含む15の堂に「神体円空作」の像が置かれたことが記録されています。おそらく、円空は、江州伊吹山で修行を積んだ山岳修験者という触れ込みで、地を鎮める祈りを込めて村々に神体像を造顕することを請われ、蝦夷に渡ることになったのだと考えられます。その仲介にあたったのは、おそらく当時松前藩のアイヌの交易品を一手に引き受け、伊吹山の石灰も商っていた近江商人でしょう。
 円空は、松前藩の日本海沿いに神体像としての観音菩薩坐像などを造像した後、当時は地理的に全く解明されていなかったアイヌの土地である蝦夷地に向かいます。その目的は、『福山秘府』の「諸社年譜並境内堂社部」の有珠の部分に、観音堂に「神体円空作」の像があったと記されているので、アイヌとの交易拠点である「ウス場所」に初代藩主松前慶広の建立した堂が有珠山噴火で被害を受けたため、円空はその再興に訪れたと考えられます。
 円空の蝦夷地での活動はこれにとどまらず、7月28日、噴火間もなく、火山灰が数mも積もっていたという有珠山に初めて登頂し、さらに、8月11日には大噴火を起こした内浦山にも登っています。また、この2像を含め、円空は山岳名を記した像を10体も残しています(表1)。これらの像は、アイヌの使っていた小幌の岩屋などに残されており、松前藩の要請で造られた像とは考えられません。
 円空は、噴火により陸地も海も火山灰に覆われ、サケなどが獲れなくなったことに加え、松前藩がサケとコメの交換率をアイヌに不利なように変更したことにより、アイヌの人々が苦しむ姿を目の当たりにしたはずです。さらに、蝦夷地は次にどの山が噴火してもおかしくない切迫した状況にありました。円空は、アイヌたちの苦しみを、水害により味わってきた自らの苦しみと重ね合わせ、何とか地を鎮められないかと、いたたまらない思いで山に登り、山名を記した像を造ったのではないでしょうか。その行動は、白山の怒りを鎮める術(すべ)を求めたいという願いともつながっていたはずです。

表1:北海道に現存する山名の記された円空像一覧

中観音堂の建立

 円空は、蝦夷から、津軽、秋田、松島を経て、翌寛文7(1667)年には美濃・尾張に帰還していますが、この年、円空が観音菩薩坐像に「たろまゑ乃たけ」と記した樽前山が、突如として噴火しています。円空は、自分の力の至らなさを身にしみて感じさせられたのではないでしょうか。円空は信濃国(長野県)戸隠山に向かい修行をしたようで、戸隠を詠んだ和歌が残り、中観音堂の中尊十一面観音菩薩立像の像内から戸隠九頭龍権現社の牛王印が発見されています。当時、戸隠信仰の中心であった九頭龍権現社は、水治めの信仰を集め、修験者たちが、洪水をおさえる「瀬引きの秘法」などの祈祷を行なうための修行を行なっていたといいますから、円空はそれを身に着けようとしたのでしょう。
 そして、寛文9(1669)年には、尾張藩に家老待遇で招聘されていた明国からの亡命者である医師・張振甫が建てた鉈薬師に17体もの大群像を製作、おそらく振甫のプロデュースの力もあって創造力が一気に花開きます。さらに、尾張藩家老の石川正光とも関わりを持ったようで、この年新たに陣屋を置いた円空の出生地にも近い中島郡駒塚(現羽島市竹鼻町駒塚)をはじめ、石川氏が代々拠点を置いてきた3か所の知行地に、いずれも裳懸坐という形式の極端に長い台座の大ぶりな坐像が伝わります。
 「何者でもない」存在に過ぎない蝦夷帰りの円空が、尾張藩の重鎮らと関わりを持つようになったのは奇異な感じがしますが、この年、蝦夷では、シャクシャインの戦いと呼ばれるアイヌの大規模な蜂起が発生しています。アイヌのことを松前藩に任せきりにしていた幕府は、事態を把握できておらず、津軽藩や南部藩に密偵を送らせています。尾張藩との関わりは、蝦夷から帰って間もない円空を同藩が召し出し、そのありさまを尋ねたことに始まるのではないでしょうか。
 円空は、寛文11(1671)年頃に十一面観音菩薩立像を中尊とする中観音堂を建立しています。幕府の新寺建立禁止令が出されていた中で、堂を作ることができたのも、駒塚周辺を知行していた家老石川家の後ろ盾があってのことでしょう。また、この時期に特徴的な裳懸坐の定型的な小像が長良川沿いの寺や民家に多く伝わりますから、円空は、長良川の水治めと、多くの死者を供養するために、広く勧進も行ったと考えられます。おそらくそこには、母の菩提を弔う思いも込められていたのでしょう。

大峯での山籠修行

 悲願だった中観音堂の建立を果たし、円空は40歳代の前半にあたる寛文12(1672)年から延宝3(1675)年頃にかけての足掛け4年ほど、山岳修験における最大の霊地、大峯山で厳冬期も含めた本格的な山籠修行に入ります。円空の和歌と、残された像などを手がかりにすると、円空の大峯での修行は、➀山上の蔵王堂(現大峯山寺)周辺、➁小篠、③笙の窟および鷲の窟、そして④山麓の天川郷で行ったと考えられます。

画像3:金峯山寺蔵『金峯山山上山下并小篠等絵図』山上・小篠部分                  画像提供:奈良女子大学術情報センター(附属図書館)

 ①山上ヶ岳は冬季豪雪に覆われるため、円空当時は山上蔵王堂の戸開が4月8日、戸閉が9月9日と定められ、この間が山上での活動期間とされていました。円空は、毎日勤められる三時供養法、護摩供、初後長長講、法華懺法などに加わりながら、多くの天台宗系の寺僧、真言宗系の満堂と共に修行を行う中で、法華経や大般若経などに関する理解を深めていったと考えられ、大峯山寺本堂に阿弥陀如来坐像を残しています。➁小篠は、山上ヶ岳から南東に歩いて約1時間、山上では稀少な豊富な水が得られる場所で、「小篠の宿」とも呼ばれ、神仏が宿るとされた大峯奥駈道沿いの「宿」(拝所・行所)の中でも最も重要なものでした。円空は小篠の歌も残しています。③大峯山中のもう一つの重要な行所として、大普賢岳(1,780m)東の大岩壁に穿たれた、標高約1,450m地点に位置する大峯山中最大の岩窟・笙の窟(しょうのいわや)があります。笙の窟は、山上や小篠と違い、冬籠りができる地理条件に位置することから、別名「南室門」と呼ばれ、季節を問わず籠居する修行が行われた場所で、大峯修験最盛期の鎌倉時代には、冬越しの山籠修行である「笙窟冬籠」が年中行事に組み込まれていました。円空は笙の窟や、その近くにある鷲の窟を和歌に詠んでいますから、ここで修行をしたことも間違いありません。ただし、冬籠は南麓の天ヶ瀬集落の多大な支援が不可欠であり、修験の衰退した江戸時代には、ほとんど行われていませんでした。天ヶ瀬に円空の像は伝わっていません。④一方、円空は、大峯山西麓の天川郷十四カ村(現在の天川村)には多くの像を残し、和歌を詠んでいます。峰入りの拠点となっていた天川河畔に鎮座する天川弁財天社には大黒天像が、天川郷のひとつ栃尾の観音堂には、観音菩薩像、大弁財天像、金剛童子像そして最も早い時期の護法神像が伝わり、深く関わっていたことがしのばれます。
 円空がどの時期に、どの場所で修行をしたのか特定するために、厳冬期の小篠、笙の窟で一夜を過ごすなどして調査したところ、小篠は雪が深く下界との往来が遮断されマイナス15度以下となりますが、湧水があるため水が確保できるのに対し、断崖にある笙の窟は、標高が小篠より低く雪も少ないけれども窟内の湧水が完全に凍結し、天ヶ瀬村の支援なしに冬籠りは不可能なことが分かりました。これらを踏まえると、円空が大峯山上での修行に入ったのは、寛文12(1672)年夏以降で、冬場はいったん山麓の天川郷栃尾村にあった堂の谷の窟で越年修行をしたと考えられ、かつて窟に置かれていたのが、現在栃尾観音堂に伝わる諸像で、そのうち観音菩薩の像内に納入された「寛文(年は欠損)」と書かれた紙片が確認されています。そして、翌13年(9月より延宝元年)、戸開から戸閉まで山上蔵王堂周辺で修行をした後、引き続き厳冬期でも湧き水の得られる小篠の宿で越年修行を行ったと考えられます。

画像4:厳冬期2月の笙の窟。湧水は凍結している

 このような過酷な山籠修行を経て、いったん山を下り、志摩国に入り片田の三蔵寺と立神の薬師堂で六百巻におよぶ大般若経を、それぞれ転読しやすいように巻物から折本に補修し、見返しに大胆に省略された添絵を描いています。添絵を繰り返し描く中で、円空は造像における大胆な省略法を学んでいったのでしょう。そして、翌3(1675)年、再び山上で戸開から戸閉までの3回目の修行をもって満行としています。笙の窟、鷲の窟での修行はこの2回目または3回目の修行の中で行ったと考えられます。

 円空の大峯修行を追いかけていくと、教義や祈祷法を身に着ける修行も無論行ったのでしょうが、堂の谷や小篠での越年修行など、当時の修験者集団とは一線を画した、過酷な環境の中で独り自己と向き合う修行に重きを置いていたことが浮かび上がります。そのような修行を経て、自らの命を護法に捧げる決意をしたことが、延宝2(1674)年の志摩国から始まる各所での大般若経補修の営みや、この時期以降終生造り続けた護法神などからうかがわれます(画像5ー1~3)。
 円空当時伊吹山や大峯山など、中世に全盛を迎えた山岳修験は、戦乱の影響を受け、また江戸幕府の宗教統制も相まって衰退の一途にあり、例えば、真言宗系の修験である当山派の大峯修験を支える「正大先達」の寺院が、室町時代には36カ寺あったものが、江戸時代前期には12カ寺に激減していました。円空は、白山や蝦夷の山岳にみられるような地の怒りを、仏法の衰退によるものととらえるようになり、造像などを通じ仏法に護られた国土にしていくことで、何とか鎮めようと誓ったのではないでしょうか。この頃から円空の造像は大胆な省略と、荒々しい彫り口に変化し、造像のスピードが格段に上がっています。おびただしい造像を可能とする技法を身に着け、円空はいよいよ遊行の旅に出かけます。
 (後編に続く)

<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。

(2025年12月15日 総集編後編を掲載予定です)

(左から)画像5-1 奈良県天川村栃尾観音堂 護法神像(護法神として最も早い時期の像)、 5-2 岐阜県羽島市 長間薬師寺 護法神像 5-3 岐阜県飛騨市 小萱薬師堂 護法神像(晩年の像)

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