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山の日レポート

山の日レポート

山の日インタビュー

「縦横無尽 雨宮節 沖縄と山を語る」#5

2023.03.16

全国山の日協議会

ヒマラヤの鉄の時代 続 ダウラギリⅠ峰サウスピラー

Camp3下部雪稜

第1次都岳連隊 1975年 雪崩による遭難で隊員、シェルパを失う

鹿野  マナスルの次のヒマラヤが、1975年のダウラギリⅠ峰サウスピラー(南柱状岩稜)計画ですね。
雨宮  そう。マナスル西壁の成功で自信をつけたから、そのときのメンバーを核にして、次の計画を立てたわけ。ダウラギリⅠ峰は、ジャイアンツのなかでもなかなか登られなかったむつかしい山だし、サウスピラーは氷河帯を抜けてとっつくところから、標高差3000メートルくらいある険しい岩稜なんだけど、1973年には偵察もして、俺たちなら登れると思ってた。隊としてはマナスル西壁隊と同じ都岳連主催の形をとって、隊員17人というけっこう大規模な隊になった。
鹿野  雨宮さんはその隊の隊長を引き受けた。
雨宮  マナスル西壁の隊員がメンバーの中心で、メンバーには(高橋)照さんもいたんだけど、やっぱり隊長は最前線に立てるクライマーのほうがいいから、おまえがやれっていうことになったんです。

Camp2アイスリッジ

鹿野  で、結果として隊員2人、高所ポーター3人がC1(第1キャンプ)で雪崩にやられて亡くなったたわけですよね。
雨宮  そうなんです。3月初めにBCを作って、氷河を抜け、わりと順調にサウスピラーにとっつき、C3からルートを伸ばして一番むつかしいところは突破したのかなと思ってたんだけど、3月23日から大雪になって、26日にC1が雪崩にやられた。そこで隊員2人とシェルパ3人が亡くなったんです。まいったよ。僕はあそこは雪崩はこないだろうと思ってたから。
鹿野  その後、登山をやめるか、続行するか、だいぶもめたそうですね。
雨宮  そうなんだ。隊のみんなでもはじめは意見が分かれたけど、結局まだ時期も早いし、登山を続行するということで合意した。それで僕は遺骨を持ってカトマンズに戻り、東京と話をしたんだけど、都岳連としては登山を中止せよと言ってきたわけ。それで僕はBCに戻って、中止を伝えた。隊長としてはもちろん辛かったし、責任も痛感したけど、隊が独自に最終的な意思決定ができないことの割り切れなさは感じたよね。

岩稜の登り

第2次都岳連隊 1978年 サウスピラーからの登頂と隊員1名の遭難

鹿野  でも帰国したあと、メンバーのなかからやはりもう一回やろうという声が出て、1978年に再度チャレンジした。雨宮さんは、その隊長を引き受けた。
雨宮  うん。自分でもこのまま終わると悔いが残ると思った。で、その隊も主催は都岳連ということなんだけど、でも前のときに懲りてたんで、イエティ同人という会を立ち上げ、それが都岳連に加盟して、都岳連の後援を取り付ける形をとった。とにかく現場の意思決定に、日本から口を挟まれるのはもうごめんだと思った。
鹿野  イエティ同人ってのは、どういうものだったんですか。
雨宮  いいかげんて言えばいいかげんな会で、会則もないし、固定した会員がいるわけでもない。当時ヒマラヤへ行くには、都道府県の岳連(山岳連盟)を通して日山協(日本山岳協会)の推薦をもらわないと、ネパールなりパキスタンなりに登山申請ができないっていう仕組みになってたでしょう。だから都岳連に加盟してるクラブでないと、ヒマラヤへはいけない。そのころには若い、既存の組織に属してない優秀なクライマーがけっこう育ってきてたし、そういう連中でもヒマラヤ登山の申請ができるような仕掛けを作ろうっていう気持ちがあったんだね。それで作ったのがイエティ同人なんだ。

岩壁の登攀

鹿野  そして、サウスピラーからの登頂に成功した。でもまた隊員の一人が高度障害で亡くなった。
雨宮  永沼ね。彼は1975年の隊のメンバーでもあったから、痛恨の極み。でも、今度は登山は続けた。そこで止めたって、彼が帰ってくるわけじゃないし、前のときみたいに隊の判断を二転、三転させるみたいなことはしたくなかった。結局事故から20日近くあとに2チーム、6人がサウスピラーからの初登攀に成功した。でも隊長っていう立場では、前のことも含めて、すなおに喜べるわけないよね。僕自身はこれでヒマラヤはもうやめようって思った。もう42歳、自分では7000メートルあたりまで行っても高度障害に悩まされたことはなかったから、自分が限界だと思ったわけではないけど、やっぱり事故の責任はのしかかってたよね。

ダウラギリ頂上

本表紙

聞き取り、構成:鹿野勝彦(全国山の日協議会 評議員)
(2022年11月21日 雨宮さんの自宅にて聞き取り)

(あまみや たかし)
1936(昭和11)年生まれ。
1960年代日本での積雪期岩壁登山、そして1970年代にヒマラヤの山々でバリエーションルートからの登攀を競った「鉄の時代」とともに生きてきた登山界のレジェンドの一人です。
2年前までの12年間沖縄に住み、沖縄県山岳・スポーツクライミング連盟の会長を務めていました。

雨宮節さん

雨宮節さん(登山家)

【山の日インタビュー】 この人に聞く「山」の魅力
雨宮さんは2年前までの12年間沖縄で暮らしていました。今年8月11日に沖縄で開催される山の日全国大会を盛り上げるために、雨宮さんに沖縄の山々そして自然の魅力を語ってもらいました。

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