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山の日レポート

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通信員レポート

冬剱雪黒部 1

2023.04.13

全国山の日協議会

文・写真提供:和田城志さん

和田城志さんの「冬剱雪黒部」シリーズ第一弾をお届けします。冬期剱岳・黒部峡谷での登山を中心にした記事を書いてくださいます。ご期待ください。


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 私の登山遍歴の中から、もっともエネルギーと時間を費やした山を紹介しよう。積雪期の剱岳と黒部川横断である。私の著書『剱沢幻視行-山恋いの記-』で紹介したが、冬剱雪黒部の全貌は書いていない。剱岳北方稜線や15回に及ぶ黒部横断の記録を、珍しい写真を交えて紹介しようと思う。すでにFBでSNS上にアップしたものもあるけれど、重複してもいいだろう。この場を借りて、おいおい気の向くままに投稿しようと思う。先ずは刺激的な冬の剱沢大滝から始めよう。

剱岳を東から見た全景

剱沢大滝登山史略

 NHK—BS のドキュメンタリーで、剱沢大滝は一般の人にも知られるようになった。担当ディレクターの山田和也さんは私と同郷の土佐出身である。今や人気者の好漢、中島健郎くんを連れて大阪の我が家にやってきた。大滝を撮りたいという。いつの季節がいいかと問うので、「景色やったら秋の紅葉やろうなあ。しかし、剱沢を遡行するなら、雪渓が利用できる五月の連休がええのとちゃうかなあ。」と答えた。彼らはその通りに秋に偵察し、五月に大滝を登った。いい映像が取れて上出来の番組になった。何度も再放送されているのだから。それにしても、中島くんらはあっさり登ったなあ。私のときは、もっと悲壮感を持って大滝に向かっていった。時代かなあ。
 私がこの峡谷を初遡行したのは1976年5月だった。あれからずいぶん歳月が流れた。今でも多くの人々に関心を持たれている秘境である。けれども、雪に埋もれた剱沢大滝となると、見た登山者はほんのわずかしかいない。鹿島槍ヶ岳を越えて行かなければいけないから、日数も労力も半端ではない。それに冬の谷底には雪崩の危険がある。一般の人が近づけるところではない。多分永久に日本屈指の秘境であり続けるだろう。

剱岳と剱沢の全景 谷の狭い部分が大滝

まずは剱沢大滝の登山史を簡単に紹介しよう

 大滝に近づくには、黒部川を宇奈月もしくは黒四ダムからアプローチしなければならない。剱沢の入口は十字峡である。1919年に初めてここに到達したのは、古川合名会社の水力調査隊と東京帝大学生の沼井鉄太郎である。調査隊は宇奈月から欅平を経て、黒部川の右岸に道を開きながら近づいた。当時はまだ日電水平歩道は開通していなかった。沼井は後立山の五龍岳を越えて、東谷を下り黒部本流に出て古川道をたどった。実利経営(社会的活動)と山岳逍遥(個人的ロマン)というまったく異なった動機で、別々のルートから十字峡に近づいた。これは日本の登山史(実は世界の探検史にも通じる)を語るときに注目すべき視点である。地理的探検には常にこの両面がある。剱沢大滝は、北陸地方の山岳地に潜むささやかな秘境ではあるが、前人未到というその本質に何ら変わりはない。
 彼らに少し遅れて、黒部の人冠松次郎が登場する。冠は、1920年から黒部川に入り、本流や支流を踏破した後、最後の秘境として剱沢を目指した。1925年から27年にかけて、剱沢の上流と下流から大滝に迫った。冠のもとに、東京帝大の精鋭たち、別宮貞俊、岩永信雄、沼井鉄太郎、そして伝説の山案内人宇治長次郎が集った。黒部探検のスターたちのそろい踏みだ。1927年、ついに剱沢大滝の最下段の滝下に至り、幻の瀑布に相対峙する。

大滝最下段の滝の落ち口

 1931年、大滝最下段の滝を登攀して、内部ゴルジュを最初に見たのは、日本電力測量部の人たちだった。ここでも実利経営が先行する。しかし、剱沢をふさぐ、その圧倒的な岩壁群とゴルジュに大滝遡行は不可能に思えた。測量隊も冠も、大滝突破は断念せざるをえなかった。その後、大滝は戦争の渦中に埋もれて忘れられてしまう。
 この幻の大滝が再登場したのは、戦後復興を支えた高度成長の時代だった。パイオニア・ワークを標榜する京都大学山岳部は、1961年に冠の夢を引き継いだ。ヒマラヤ初登頂の時代、大学山岳会の目は国外の山に向いていた。若々しい現役部員は、身近にある未知に挑む。古き良き大山岳部が最後に輝いたときだった。京大がこの大滝の30年間の沈黙を破ったが、完登したのは1962年の鵬翔山岳会だった。ヒマラヤ帰りのロッククライマーがあっさり登ったしまった。国内登山のイニシアティブが、大学山岳部から社会人山岳会に移っていたときに呼応する。

大滝の登攀図

 そしてまた、しばらく忘れられた。岳人の目標は岩壁登攀に移ってしまい、人の行かない山より高難度の大岩壁にひきつかれた。多くの低山側岩壁に、無数のルートが社会人山岳会によって拓かれた。それでも未知未踏を是とする山好きはいる。その代表が沢登りの愛好家たちだった。彼らは、剱沢大滝は登攀されたが、剱沢の遡行はまだされていないと感じていた。1970年代に入って、そういう気持の人たちが訪れるようになった。私もその一人だった。
 1976年に私が鵬翔山岳会以来17年ぶりに大滝を登ってから、立て続けに登られるようになった。当然次の目標は積雪期登山である。1978年3月、鵬翔山岳会は、鹿島槍ヶ岳唐牛首尾根を十字峡に下り黒部を横断、剱沢を遡行した。これが積雪期初登攀である。彼らは剱岳に立たずにハシゴ谷乗越から黒四ダムの方へ下った。私は剱沢大滝の終了点は剱岳であるべきだと考えていた。1983年3月、赤岩尾根、鹿島槍ヶ岳、牛首尾根、十字峡、剱沢大滝と辿り、八ッ峰Ⅰ峰北面滝ノ稜新ルートを登り、剱岳の頂上に立った。会心の登山だった。

十字峡から剱沢、剱岳当面の概念図、黄色の線は和田さんのトレースしたルート

和田城志さんプロフィール

1949年高知県生。大阪市立大学山岳部入部して本格的な登山を始める。黒部を中心とした岩登りに熱中し大学中退。その後も冬の剱岳、雪の黒部川を中心に冬山登山を続ける。
1978年のランタン・リルン初登頂。1984年カンチェンジュンガ縦走(南峰、中央峰、主峰登頂)。ナンガパルバットは3度敗退。
1987年1月、北アルプス立山山頂で遭難、山崎カール底まで滑落。7ヶ月の入院闘病生活を送り、約2年間登山から離れる。その後右膝に障害が残る。
冬の黒部川横断をライフワークとし、合計15回の横断を成功させる。2013年一人でヒマラヤ・グレイト・トラバースを5ヶ月間でトレース。国内でも長期間の歩き旅やサイクリング野宿旅を実践、またヨットでの旅を続ける。

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