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山の日レポート

山の日レポート

山の日インタビュー

連載② 東奔西走 ダルマ・ラマ 富山からネパールと日本、世界をつなぐ

2023.09.16

全国山の日協議会

第2回 青年時代 リサンク村からカトマンズへ

鹿野  「リサンク村にはいつまで住んでいたんですか」
ダルマ 「日本なら中学校・高校にあたる10学年までです。村にははじめ5学年までの学校しかなくて、6年目には別の村の学校に行き始めたんだけど、途中でリサンクにも10学年までの学校ができたので、そちらに移りました。
でもそこにはまともな設備がほとんどなかった。黒板もないしトイレもない。で、僕たち生徒は、ユースクラブっていうのを作って、お祭りのときに歌や楽器の演奏やダンスをしながら家々を回って寄付を集めたり、みんなで労働奉仕をしたりして、少しずつ学校の整備をした。
半分遊びみたいなところもあって楽しかったし、いろんな経験も積んだし、そのころの友達とは今でもつきあいがあって、いろんな事業をするときには手伝ってくれるんです」
鹿野  「なるほど。今のダルマさんの活動の原型が、なんとなくそこにあるみたいだな。
     で、10年で卒業して、カトマンズへ出たんですね」
ダルマ 「はい。ネパールのそのころの学制では、10年の中等教育が終わった段階で日本の統一試験みたいなのがあって、それの成績が良ければ大学に進学できる。僕はそんなに成績が良かったわけじゃないけど、とにかく上位20%以内に入っていたから、なんとか大学に進んだ。そのころのリサンクはまだ田舎だったから、村から大学へ行く人はほとんどいなかった」

スワヤンブナート寺院からカトマンズの街を望む(1987年撮影)

鹿野  「1990年ごろですね。専攻はなんだったんですか?」
ダルマ 「一応、経済です。そのころ兄がカトマンズの近くのバクタプールに住んでいて、絵師として活動してたから、私もそこに住んで、カトマンズのキャンパスに通ってました。でも大学の勉強にはそれほど熱心じゃなくて、卒業までほんとは2年のところを3年かかった。
ただその一方で、兄に指導してもらいながら絵の修行もしてたし、バクタプールには、欧米や日本なんかからも多くの観光客が来るから、その人たちに絵を売ったり、希望者がいれば、教えたりもしてました。チベット仏教の仏画は、いろんな決まりが厳しくて、仏教の教えをある程度理解しないと、見てもよくわからないし、もちろん描くことなんかできない。観光客から絵の意味を聞かれてこたえられないようじゃ、商売だってできないし。だからそういう勉強は一所懸命してました」
鹿野  「で、そこで今の奥様とも出会ったわけだ」
ダルマ 「そうです。出会ったのは90年代の末ですけど」
鹿野  「タマンの人はカトマンズにはかなりいたと思うけれど、民族としてはどちらかというと地味で保守的な感じがするんですが」

カトマンズ市の中心部(1987年撮影)

ダルマ 「そうなんです。たとえば先生が専門にしているシェルパは、同じチベット仏教徒で、人口はずっと少ないけど、ヒマラヤ登山で世界的に有名だし、僕がカトマンズに出たころには、ビジネスの世界で成功してる人も多かった。でもタマンと言っても、外国の人は、ネパールにそんな民族がいることも、ほとんど知らない。
ただ、これは私が生まれた年になりますけど、1973年にサンブー・タマンという人がイタリーの登山隊に参加して、ネパール人ではシェルパ以外で初めてエヴェレストの頂上に登ったんです。
彼はラマ一族で、ラマの人はプライドが高いから、普通ならサンブー・ラマって名乗るんだけど、彼はあえてタマンで通してました」
鹿野  「そうだったんだ。僕は1973年にはずっとネパールにいて、イタリー隊にも親しいシェルパが参加してたから、ベースキャンプにも行ったんだけど、サンブーさんには会っていない。ダルマさんはサンブーさんとは親しかったんですか」
ダルマ 「いえ。ラマ一族だから、もちろんよく知ってましたけど、だいぶ年が離れてるんで、親しいというほどじゃなかった。でも、登山をやめてからもいろんなビジネスに積極的に取り組んでいて、そういう点でも尊敬してました。残念ながら最近亡くなりましたけど」 

カトマンズ市内で土器を売っている(1987年撮影)

鹿野  「ところであなたはそのころ、インドへもよく出かけていたそうですね」
ダルマ 「はい。インドの北のほうには、もともとチベット系の人たちがけっこう住んでいる。そこへ1959年のチベット動乱で、ダライ・ラマをはじめたくさんの人が難民としてやってきて、ダラムサラはじめいろんなところに住み着いた。僕は先生みたいな人類学者じゃないから、一か所に長く滞在するとかはしなかったけど、そういう人たちが多くいるところを主な目的地にして、よく旅をしました。ラダック(ジャンム・カシミール州)やクル、マナリ(ヒマチャル・プラデーシュ州)とか。そこでのチベット仏教や仏画がどんなものかにも興味があったし、やっぱりじかに話をすれば、いろんなことを感じられるじゃないですか。世界の見方が広がるっていうか」
鹿野 「けっこうお金もかかった?」
ダルマ「いいえ。僕の場合は、自分で描いた絵を売りながら旅してましたから。その意味でもチベット系の人が多く住んでいるところが、つごうがよかったんです」    

(次回は10月1日掲載)

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