閉じる

ホーム

  •   
  •   

閉じる

山の日レポート

山の日レポート

自然がライフワーク

ヒマラヤの町  ある日、ある時             鹿野 勝彦

2023.02.01

全国山の日協議会

南アジア及びヒマラヤを研究する文化人類学者・本会評議員鹿野勝彦さん ヒマラヤの街をシリーズでつづります

 ヒマラヤには個性的な町が多くある。東南から北西へかけておよそ2500キロメートルにおよぶヒマラヤ山脈の南はインド、ブータン、ネパールからパキスタンにかけての、標高200メートルほどの亜熱帯的な南アジアの平原だが、北はしばしば標高4000メートルに達する中国チベット自治区、新疆ウィグル自治区とインドのラダック地方にかけての高原であり、東端のインド・ミャンマー国境付近は世界で最も降水量の多い地域であるのに対し、西端のパキスタン北部はおおむね沙漠といってもよい。その自然の多様性と、南アジアと中央アジア二つの文化圏の接線に位置するという地政学的な複雑さが、それらの町に凝縮している。

 私が初めてヒマラヤを訪れたのは1965年で、それから60年近くの間に、東はブータン東部から西はパキスタンの北部まで、ヒマラヤのかなり広い範囲を旅してきた。目的は主に登山や村落地域での人類学の調査、博物館のための資料収集などだったから、町は多くの場合、どちらかと言えば通過点でしかなかった。
 それでもそこで過ごした時間の記憶は、いまもしばしば鮮やかによみがえる。もちろんそれらの町は、現在では著しい変貌を遂げているはずで、したがってここに記すことも、これからそこを訪ねようという人の参考などには全くならない。宮沢賢治にならえば、これは私の記憶しているある場所、ある時間についての心象スケッチである。

ヒマラヤと周辺の国々

ヒマラヤの町 1

 1972年の秋から16か月ほど、妻の茂利江とともにネパールにいて、その間、ロールワリンやソル・クンブなど、ネパール高地のシェルパの村での調査やチョモランマ登山を行っていたのだが、帰国する前にしばらくインドを旅することにした。

シェルパの村

「シムラー 1」

 おもな目的はいわゆるヒル・ステーション、すなわちインドが植民地だった時代に、大都市に住むヨーロッパ人の保養地として開発された、冷涼な山地に立地する町を見ることで、特にデリーに近いシムラ―とカルカッタ(現コルカタ)の住民が主な対象であるダージリン(西ベンガル)に行ってみたかった。

 デリーへ着くと、さっそくシムラ―への切符を買いに、ニューデリー中心部にあるノーザン・レイルウェイの一等車の予約窓口へ行き、デリーからカルカまでの夜行寝台と、カルカからシムラ―への狭軌鉄道の切符を購入した。3月とはいえ、ネパールの山地から来た身には、デリーの暑さと喧騒が少々こたえた。あとは帰国するばかりということで、多少金銭的な余裕もあったし、一等寝台の料金もホテル代替わりと思えば安いものだ。シムラ―は保養地というだけでなく、1865年から1939年までは、夏のあいだ首都機能も果たしていて、鉄道は 当時のインド政府の官僚や富裕層の移動手段でもあったから、その旅を追体験してやろうという気持ちも、ないではなかった。

カルカ・シムラー間の鉄路

 早朝、カルカの駅に着き、まずお茶を飲む。インドの大きな駅には、なぜかロシア風のサモワールを備えた茶店があって、注文すると熱くて甘いミルクティーを小さな土器のカップに注いでくれる。飲み終わるとカップはそのまま放り投げ、割ってしまう。使い捨てのカップである理由は、前の客がどんなカーストだったかわからないからとも、店番がちゃんと洗うかどうかわからないからともいうが、さてどうなのか。

 シムラ―行きの列車は、ほぼ定時に年代物の小型の蒸気機関車にひかれて走り出した。しばらくすると、亜熱帯サバンナ的な景観の平原から樹林におおわれた斜面に取り付き、つづらおりの、鉄道開通前は馬車が走っていたはずの舗装道路の片隅に敷かれた狭いゲージの線路を、喘ぎながら登り始める。隣の車室は学生のグループで、笑い声が絶えない。列車はときどき商店が軒を並べる小さな町の駅に停車し、石炭や水を補給したり、荷物を積み下ろしたりするが、乗降客はほとんどいない。買い物に降りた学生の一人は、おそらくわざとだろうか、発車してからしばらく列車に沿って道を走り、追いついて飛び乗った。仲間たちの歓声が上がる。

この鉄路については、
 参考記事 share (トラベルJp 「Yamaneko Mさん 投稿」)
『世界世界遺産の山岳列車が走る!雲の上の街・インド「シムラー」へ』
 で紹介されています。

 シムラ―到着は予定より1時間以上遅れたが、誰も気にする様子はない。標高はおよそ2100メートル、さすがに空気がひんやりと感じられる。駅前のトゥーリスト・インフォメーションで手ごろなホテルを紹介してもらい、町の案内図ももらって、モール(遊歩道)の緩やかな坂を登って行く。両側には規模は小さいものの、こぎれいなホテルやブティック、宝飾品店、カフェ、書店などが立ち並び、オフシーズンとて人通りは少ないが、いかにも高級リゾート地らしいおだやかな雰囲気だ。「なんだかヨーロッパの町に来たみたい」と茂利江がつぶやく。「え、そうなんだ」、まだヨーロッパに行ったことがなかった私は、あいまいな返事をするしかないのだが、たしかにあたりの景観は、交差点中央のロータリーに立つ、インドの町ではよく見かけるガンディーの銅像以外は、植民地時代からほとんど変わっていないのだろう。
 ともかくすこしおそい昼食のためにベーカリーを兼ねたカフェに入る。「あ、おいしそうなクロワッサンがある」、茂利江が歓声を上げた。ネパールでは、村にいるときは村人とおなじものを食べるのが原則だったし、カトマンズでも市場で買った食材を使っての自炊がほとんどだった。
 デリーに着いてからは、さすがに食事には少し贅沢をしていたが、それでもここで見かけたケーキやパンは、ニューデリーでも高級ホテルのベーカリーあたりでしかお目にかかれないような品々だった。

編集:黒岩春彦

RELATED

関連記事など