山の日レポート
自然がライフワーク
『円空の冒険』諸国山岳追跡記(15)【長野県編Ⅱ】 清水 克宏
2025.06.01
今でも信濃国の別称、信州と呼ばれることの多い長野県は、山並み遥かに高峰が屹立する、岳人にとって特別な土地です。長野県編Ⅰでご紹介したように、円空は、蝦夷から戻った直後の寛文年間後期、30歳後半の頃に戸隠山と飯縄山に登ったと考えられます。そして、残された像や和歌から、50歳代においても、関東の旅の帰路と、御嶽などに登るためとの2度、訪れたと考えられます。信州の山々を舞台とした円空の足取りを追いかけます。
表1:長野県の円空像一覧(移入像をのぞく)
長野県には、移入されたものを除くと19体の像が伝わります。大きく分けると、上田市および松本市、南木曽町および木曽町の2地域に残されているといえます(表1、図1)。
また円空は、信州の山岳を詠んだ和歌を、戸隠山(戸蔵山)・飯縄山各3首、浅間山1首、木曽駒ケ岳8首、御嶽1首、それぞれ残しています。従来の円空の研究は、「円空仏」の研究が中心でしたから、戸隠山、飯縄山、浅間山、木曽駒ケ岳など、像が周辺に残らない山岳の和歌は、ほとんどかえりみられてきませんでした。しかし、明治初年の廃仏毀釈の機運の中で、神仏習合であった山岳霊場から徹底的に仏教色が排除された事例が数多く、これらの山にも円空は訪れ、山岳修行を行い、造像した可能性は高いのです。「円空の冒険」の追跡には、和歌も重要な手掛かりとする必要があります。
図1:長野県の街道と円空の手掛かり 原図出典:Skima信州(https://skima-shinshu.com)「長野県街道マップ」
群馬県編でご紹介したように、円空は、延宝7(1679)年頃から天和3(1683)年頃にかけての関東への旅から美濃・尾張方面へ帰還する折、おそらく下仁田道から峠越えし信濃国へ入ったと考えられます。円空は同地にそびえる浅間山の歌を2首残しています。
玉なるか 浅間の山の 底二わく 幾万代の かつにとらなん
湧(き)出(る) 浅間の山の 形なるか 万代(よろずよ)まても 玉かとぞおもふ
日本を代表する活火山である浅間山(2,568m)は、円空の当時も小噴火を繰り返してはいましたが、比較的その活動はおさまっていた時期にあたります。噴火間もない蝦夷の有珠山や内浦岳(北海道駒ヶ岳)にも登っている円空ですから、浅間山にも登り、その火口の底をのぞき込んだりしたのではないでしょうか。円空は、星宮神社(岐阜県郡上市)に残る祭文風和讃「粥川鵼縁起神祇大事」にも、「浅間山立霧」と詠みこんでいます。
ちなみに、日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』を執筆したイギリス人宣教師のウオルター・ウェストン(1861~1940年)は、同書の中で、明治24(1891)年日本アルプスに向かう途中、「足ならしのついでにアルプス山脈を遠望するつもりで」浅間山に登っています。しかし、霧のため、「日本アルプスの雄姿がうっすりと紫色に浮かびあがった」程度で、しっかりは確認できなかったようです。
画像1:上田市丸子地区からの浅間山。度重なる大噴火で円空当時と山容は変わっている
浅間山を後にすると、円空の像が上田市浦野の馬脊(ませ)神社と、松本市内の浄林寺に伝わります。浦野は松本藩が参勤交代などに使っていた松本と上田を結ぶ保福寺街道の宿場町で、円空は、和田峠越えで諏訪に入る中山道ではなく、浦野宿から保福寺峠(1,345m)を越えて松本に入ったと考えられます。保福寺街道は、律令時代の東山道にほぼ重なり、浦野の地は万葉集にも歌われています。
円空の薬師如来立像を所蔵する馬脊神社は、西之宮、東之宮の二社に分かれ、ともに馬背神を祀り、諏訪神(西之宮は建御名方命、東之宮は建御名方富命、)を併せ祀っています。平安前期の『日本三代実録』に神階を授けられた記録のある「馬背神」が、同社に比定されており、東山道の山越しの安全を願う社だったのでしょう。氏子総代の方々のご配慮で、円空の薬師如来立像を拝させていただきました。西之宮と東之宮の間に、薬師堂があり、像はここに納められていたらしいとのことで、優しい笑顔とともに、大地をしっかりと踏みしめる大きな足が印象的でした。
今回、保福寺峠を訪れる予定だったのですが、県道崩落のため通行止めで、今はあまり使われない道のようです。ウェストンが「日本アルプス」を目指した明治24年には、まだ松本には鉄道が通じておらず、上田駅から人力車を使い、やはり保福寺峠越しで松本に入っています。浦野から先の山道は、長く手入れされておらず悪路で、車夫をいたわるつもりで峠までは歩き、「四五〇〇フィートの峠の峰に着いたのは午後六時。尾根の窪みの左側に小さな円丘があって、その上に立つととつぜん目の前に憧れの大山脈が姿を現した。」と記しています。
ウェストンを200年以上さかのぼる円空当時、イギリス人ウイリアム・ガウランドが名付けた「日本アルプス」という名称はもちろん、「飛騨山脈」という地理上の名称すらまだありませんでした。しかし、天気さえよかったなら、円空も峠から同じ光景を眺めたことでしょう。
峠を下り、街道名の由来となった古刹保福寺を行き過ぎると、松本城下に入ります。浄林寺は城の南、女鳥羽川沿いに位置する浄土宗の寺院で、江戸時代には末寺を多く抱えていましたが、明治初年の廃仏毀釈でいったん廃寺となり、その後、かつての観音堂を本堂とし再興され現在に至ります。円空の聖観音菩薩立像(54.7㎝)は秘仏で、拝観はかないませんでしたが、図録で拝すると、衣に手を隠す表現など、茨城県笠間市月崇寺の観音菩薩立像などと様式が共通しているようです。
画像2:上田市浦野 馬脊神社蔵 薬師如来立像(像高40.3㎝)
松本市にはもう一体、現在波田公民館に寄託されている円空像がありますが、事前調査では、画像はおろか、何の像かの情報さえつかめませんでした。しかも、松本城下から美濃・尾張地方に帰還するなら、中山道の通る木曽谷に向かうのが一般的であるのに、10㎞ほど西に外れた松本市西部の波田地区に残されているところも解せないところです。波田というと、岳人にとっては「松本から上高地に向かう途中の町」という印象が強く、円空は、もしかして飛騨山脈を越えて飛騨に向かった可能性もあるのでは、と疑問を持ちつつ公民館を訪れました。
ロビーのケースに納められた円空像は、像名が分からないほど損傷しており、「若澤寺の関連品 波田地区第1区町会所有 円空仏」として展示されていました。それでも岩坐に立つ一木から彫り出した全体のフォルム、首が胴に直接つながるところ、眉と目の造作などで、その作と分かるところが、円空のすごいところです。手には何か複数のものを捧げ持つことと、V字型に重ねられた衣の彫りが深いことからすると、菩薩や如来像ではなく天部像なのではとおもわれました(画像3ー1)。
公民館の方に、同像が発見された時の資料として、平成14年7月1日発行の『円空学会だより』第124号の「長野県波田町の円空仏新発見について」という記事を見せてもらいました。そこには、「真光寺は、明治初期の廃仏毀釈の際に廃寺になった真言宗の寺であるが、その跡に小堂が建てられその中に円空仏が安置されていたものである。真光寺か周辺に祀られていたと考えられるが、摩耗風化がかなりひどいところから、風雨に曝される小祠堂に安置されていた可能性が高い。」とありました。公民館の方に、若澤寺との関連についてうかがいましたが、はっきりは分からないとのことでした。
今回の信州調査には、松本在住の山仲間米山悟さん(『冒険登山のすすめ─最低限の装備で自然を楽しむ』(ちくまプリマ―新書)の著者)が同行してくれました。信州の地誌に詳しい同氏によると、松本は、旧藩主で松本藩知事に任命された戸田光則の主導で、日本でも最も強力に廃仏毀釈運動が展開された歴史があり、「信濃日光」とも呼ばれていた若澤寺も、この際に徹底的に破壊されたとのことです。同寺は、梓川右岸の白山(1,387m)山中に位置し、元は白山信仰を背景とした山岳寺院で、江戸前期の延宝4(1676)年京都智積院の末寺として新義真言宗に改宗し壮大な伽藍が整備され、円空が信州を訪れたのはこの時期だったようです。また、左岸にある真光寺は、真言宗高野山金剛頂院末の寺院で、やはり明治初年に廃寺となり、明治15年に曹洞宗の寺院として再建されたそうです。
米山さんの案内で、若澤寺の跡を訪れましたが、城跡のような石垣や基壇が残され、壮大な規模の寺院であったことがしのばれました。円空が松本を通った時期に近い『元禄信濃国絵図』をみると、当時、波田(当時は上波多村、下波多村)から梓川を遡行すると信濃峠(飛騨側では平湯峠)を経て、飛騨国に入るルートが開かれていたことが描かれています。山岳寺院である若澤寺は、おそらく信濃・飛騨国境山岳に関する情報が集積する場所だったはずで、波田の円空像が同寺に関わるものかまでは特定できないものの、白山を信奉し、こののち信濃・飛騨国境の山岳に登っている円空が同寺を訪れた可能性は高いと考えられます。
なお、円空の波田以降の帰還ルートに関してですが、木曽谷は貴重なヒノキなどの産地であることから、尾張藩領とされ、中山道の木曽十一宿も統括していましたから、同藩と関わりが深い円空には通行しやすい道だったはずです。また、円空は、貞享元(1684)年3月には、七言絶句に「貞享甲子三光春」「如伏活龍福部神」(高賀神社大般若経裏紙)と詠んでいることから、関東巡錫の後、いったん美濃に戻ったことが分かり、さらに同年『天台円頓菩薩戒師資相承血脈』を尾張の荒子観音寺住職円盛法印から受けてもいます(弥勒寺蔵円空愛用経本『妙法蓮華経二』裏面墨書)。そして、翌2年頃から飛騨国での活発な造像に入ります。このような事実関係から、円空は若澤寺のある波田から飛騨国経由のルートで帰還したのではなく、木曽谷の中山道経由だったと考えた方がいいのではないでしょうか。
画像3-1:(左)松本市 波田地区第1区町会所有 円空像(36.0㎝)、3-2:(右)松本市波田 若澤寺跡
中山道三留野宿の曹洞宗等覚寺(南木曽町)には、円空の天神坐像(画像4-1)、弁財天十五童子像(同4-2)、韋駄天像が伝わります。安置されていた祠堂の棟札から、天神坐像は貞享3(1686)年6月に、弁財天十五童子像は同年8月に造られたことが分かり、同時期円空が木曽を訪れたことが確認できます。
画像4-1:(左)南木曽町 等覚寺蔵 天神坐像(28.3㎝)、4-2(右) 同 弁財天十五童子像(弁財天17.4㎝)
木曽のシンボルは、何といっても御嶽山(3,067m)で、遅くまで雪を残し雄大な裾野を引く複合成層火山の山容は、美濃・尾張両国からも眺められ、江戸時代には御嶽と呼ばれ親しまれていました。この御嶽の登拝路にあたる木曽町三岳(江戸時代は黒沢村)の臨済宗妙心寺派の大泉寺にも、円空の韋駄天像が伝わります(画像5-1)。三岳は、天明5(1785)年に尾張春日井郡出身の覚明行者が開いた登拝路の黒沢口と、寛政4(17924)年に武蔵国秩父郡大滝村出身の普寛行者が開いた王滝口の分岐点にあたります。両行者によって、軽精進による登拝の道が開かれるまで、御嶽は麓で75日または100日精進潔斎の修行を行った者だけに年1回の登拝が許される山でした。おそらく円空は、等覚寺の天神像を造った貞享3年の6月から、同寺の弁財天十五童子像を造った8月の間にそのような厳しい修行を経て御嶽に登ったと考えられ、 おおん嶽 昨日の峯の 白雲ハ けさの御山に かかる夕立 という和歌も残しています。なお、大泉寺は覚明の菩提寺であり、また彼が出家した清音寺(名古屋市枇杷島町)にも円空の阿弥陀如来坐像が伝わることから、覚明は円空を先達として慕っていたことがしのばれます。
ちなみに、ウェストンは、明治24(1891)年と同27(1894)年の2回御嶽に登り、『日本アルプス 登山と探検』に、巡礼登山者の様子などを詳しく記録しています。
画像5-1:(左)木曽町大泉寺蔵 韋駄天像(24.0㎝)、(右)黒沢ルートからの御嶽
木曽駒ヶ岳は長野県上松町・木曽町・宮田村の境界にそびえる木曽山脈(中央アルプス)の最高峰(標高2,956m)です。室町時代後期(戦国時代)の天文元(1532)年に、上松村の神官徳原長大夫春安が頂上に祭神を保食大神とする駒ヶ岳神社を建造、以後木曽側の上松から信仰目的でさかんに登られていました。上松には、寛文5(1665)年に尾張藩が材木役所を置いていたので、同藩と関わりが深い円空も登りやすかったはずです。円空の像は周辺に残されていませんが、格別印象深かったのか、御嶽の1首に対し、 しなのなる 駒ノ嶽ノ 雪消(へ)て 袖打(ち)払(ひ) 筑(ちく)カとそミる という歌をはじめ、この山について8首も詠んでいます。関東巡錫の帰路か、あるいは御嶽登拝と同じ貞享3年かは分かりませんが、おそらく円空は御嶽よりも先に木曽駒ケ岳に登ったと推測されます。
ちなみに、ウェストンも、明治24年8月に、上松からのルートで登っています。
山岳修験の僧円空とアルピニストであるイギリス人宣教師ウェストン、200余年の時を隔て境涯も違いますが、信州の山岳に向けたそのまなざしは、案外近かったのではないでしょうか。
<参考文献> ウェストン著・青木枝朗訳『日本アルプスの登山と探検』(岩波書店)
長野市立博物館『信州ゆかりの作仏聖-弾誓派から円空・木喰へ』図録
円空学会発行『円空学会だより』第124号「長野県波田町の円空仏新発見について」
波田町教育委員会『若澤寺跡調査報告書』
<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。
(次回は、2025年7月1日滋賀県編を掲載予定です)
画像6:南木曽町上松からの木曽駒ケ岳
RELATED
関連記事など