山の日レポート
自然がライフワーク
『円空の冒険』諸国山岳追跡記(17)【岐阜県飛騨地方編Ⅰ】 清水 克宏
2025.08.01
円空は、生涯を旅に生きましたが、その最後の旅先は飛騨でした。円空の飛騨国への旅は、1万体の神仏像を造像する誓いと、当時ほとんど地理が解明されていなかった飛騨山脈南部の諸岳を極める誓いを立てての、命を燃やし尽くすほどのものでした。飛騨地方には現在も円空の像が約600体残され、和歌にも多くの場所が詠みこまれています。
飛騨を訪れた時期については諸説ありますが、明確に時期が特定でき、山岳に挑んだのは、貞享2、3(1685、1686)年頃と、元禄3、4(1690、1691)年頃になります。そのうち今回は、円空が乗鞍岳へのルートを開いた貞享年間の足取りを追いかけます。
円空飛騨に向かう
岐阜県の飛騨地方は、江戸時代までは独立した一国でした。飛騨山脈や白山連峰の高峰を国境に連ね、国内も千m台の山が重畳する文字通りの山国で、円空が生まれた美濃国が木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)の流れる濃尾平野を中心としているのとは対照的です。明治時代に一つの県となると、このような風土の違いが「飛山濃水」と言い表されています。飛騨国は、江戸前期の元禄5(1692)年までは金森氏が藩主の高山藩が治め、それ以降は幕府の直轄領となっています。美濃国が、尾張藩や多くの藩などに分割統治されていたのと社会体制もまったく違う、「近くて遠い国」でした。
円空は、若き日に山籠修行をした伊吹山の山頂から白く神々しい飛騨の山々を遥かに眺め、彼の地に憧れを抱いていたことでしょう。また、円空が最も早い時期に造像した場所のひとつに、高澤山(434m)周辺があり、山中にある高沢観音とも呼ばれる真言宗日龍峯寺(関市下之保)について、円空は、「観世音/高沢や 閼伽井(あかい)の水(に) 形移す 三世(の)仏の 鏡成(り)けり」と和歌に詠んでいます。同寺は、寺伝によると、5世紀前半の仁徳天皇の時代、飛騨の伝説の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が、当地に被害を及ぼしていた龍神を退治し、龍神の住んでいたこの山に祠を建立したのが始まりとされます。このような言い伝えを持つ高澤山の山麓を流れる津保川沿いの道は、飛騨に続く古い街道でした。ただし、「何者でもない」当時の円空に、飛騨を訪れ、その高峰を極める術(すべ)はありませんでした。
歳を重ねた円空は、大峯山など各所で厳しい修行を積み、魂を込めつつ膨大な像を造顕しうる彫技を身に着け、天台宗の正式な僧ともなりました。そして、日光を訪れ、輪王寺の高岳を介して、勝道上人が、「山頂に至りて神の為に供養し、以て神威を崇め、群生の福(さいわひ)を饒(ゆたか)にすべし」(空海撰『沙門勝道歴山瑩玄珠碑并序」)と祈念し15年間の労苦を経て二荒山(男体山)を開山したことを知り、自らも人々の幸いのために飛騨の山岳に命がけで向かい合う決意をしたのではないでしょうか。あわせて、飛騨国で1万体の造像を行う誓願をしたことも、双六谷の金木戸集落に残した今上皇帝像背銘「當國万佛 十マ佛作已」(「十マ」部分の読みには諸説あり)と記されていることからうかがわれます。
円空の飛騨での足取りが最初に明確につかめるのは、高山市丹生川町千光寺の円空作の弁財天像の厨子に残された「奉寄進 辨財天女御厨子 現世安穏後生普生衆人愛敬諸願成就祈伏 貞享二年五月吉祥日 川原町針田屋 成田三休内平吉」という寄進銘です。
真言宗袈裟山千光寺の開山は、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺と伝えられます。日龍峯寺の開山でもある両面宿儺は、『日本書記』では、一つの体に前後二つの顔と二組の手足を持つ異人で、民衆を苦しめ、天皇に従わず、朝廷に差し向けられた武振熊命(たけふるくまのみこと)に征伐された逆賊とされています。しかし飛騨・美濃では、毒龍を退治し、千光寺や日龍峯寺を開山した伝説が残る古代の英雄とされ、千光寺では救世観音の生まれ変わりと敬われています。時が下り、養老4(720)年、泰澄が白山神社を勧請、嘉祥3(850)年には弘法大師の弟子眞如親王が開基し、千光寺は飛騨で最も重要な真言宗の山岳寺院となりました。現在の伽藍は、戦国時代の永禄7(1564)年に甲斐の武田軍勢の侵攻で全山焼失後、天正16(1588)年、高山城主金森長近によって再建された時のもので、そのたたずまいは円空が訪れた頃と大きく変わっていません。同寺には、円空の像が64体も伝わり、貞享年間同寺に滞在し、飛騨における活動の拠点としていたことがうかがわれます。伴蒿蹊著『近世畸人伝』(寛政2(1790)年)に「おろかに直き人なれば、円空も悦交られしなるべし」と記される当時の住職舜乗の無私無欲な人柄も、円空が長く逗留した理由のひとつだったのでしょう。代表作でもある、いかにも飛騨の山野を開拓した主らしい斧を持つ豪胆な両面宿儺像や、立木に彫られた巨大な仁王像をはじめ円空の像を拝すると、円空が舜乗と語らいながら、思うままに造像したことがしのばれます。
画像1-1(左):千光寺蔵 両面宿儺坐像、1-2(右):同蔵 仁王立像(吽形)
なお、弁財天の厨子銘には「川原町針田屋 成田三休内平吉」と寄進者名が記されています。川原町は高山の城下町で、成田三休は金森家のお抱え塗師として名産の春慶塗の改良を行ったことで知られ、おそらく平吉はそこの職人だったのでしょう。高山市街は幾度も大火に見舞われているにもかかわらず、旧高山城下には、寺社ばかりではなく、商家・民家などにも円空の像が多数伝わりますから、円空は厨子銘にある貞享2年5月よりも前から、活発な造像や勧進を始めていたと考えられます。
旧高山城下の主要な寺社に伝わる円空像は、東山八幡神社の柿本人麿像(画像2-1)、東山白山神社の如意輪観音像(画像2-2)など、いずれも円空の代表作といえる入魂の作ぞろいです。特に柿本人麻呂像は、実は大変薄い像なのですが、円空の絶妙な彫技によって飛騨山岳の山襞をおもわせるような深い陰影を帯び魅了されます。
また、初代金森長近の菩提寺である曹洞宗素玄寺、二代可重の菩提寺である臨済宗妙心寺派の宗猷寺にも円空は像を残しています。両寺は飛騨各地に末寺を多く持っていましたから、飛騨国内を巡るにあたり、まずは礼を尽くしたのではないでしょうか。
画像2-1(左):東山神明神社蔵 柿本人麻呂坐像、➁-2(右):東山白山神社蔵 思惟菩薩坐像
飛騨は、高山盆地と古川・国府盆地以外は重畳する山地で占められ、集落は河岸段丘などわずかな小平地に営まれ、街道は川に沿ってこれらの集落を繋いでいました。また、集落や他国の間を山越しでつなぐ峠道も発達していました。1万体の造像を発願した円空は、道沿いの各集落を網羅するように造像しています。残された円空像の背銘や、厨子などの銘、そして像の様式などからみると、円空が貞享年間に主に活動したのは、平湯街道と、高原道周辺であったことがうかがわれます(図1)。
平湯街道は、高山から信濃国松本に向かう街道で、小八賀川(こはちががわ)を遡り平湯に出た後、安房峠を越え梓川谷を下って松本に出る道と、高原川から支流の蒲田川に沿って中尾峠を越え梓川谷に入る道とがありました。現在は、安房峠越えで国道158号線が通っています。高原道は、平湯から北方向に折れて高原川沿いに舟津(飛騨市神岡町)に向かう街道で、現在は、国道471号が通っています。
飛騨地方には、かつて真言宗、天台宗の寺院などが多数存在して修験者(山伏)が活動し、病気平癒、雨乞い、豊作祈願、火伏、子安など生活に密着した祈祷も行われていたと考えられますが、戦国時代にその多くが衰亡し、江戸幕府の寺請制度の導入を背景とした金森氏の宗教政策もあり、阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗と、釈迦如来を本尊とする禅宗の曹洞宗および臨済宗妙心寺派の寺院が、大勢を占めるようになっていました。神仏習合の山岳修験者でもあった円空は、浄土真宗とは相いれなかったのか、真言宗の千光寺を拠点に、禅宗の寺院が多い地域を中心に巡っています。平湯街道と高原道の周辺はまさにそのような地域でした。
図1:「飛騨地域内の主要街道図」(出典:高山市教育委員会編『高山市史 街道編』)
平湯街道沿いには、小八賀川が作りだした小平地に点々と集落があり、その主だった集落に金森長親の菩提寺であった曹洞宗素玄寺の末寺(正宗寺、慈雲寺、善久寺)が置かれ、いずれの寺にも円空像が伝わります。ただし、飛騨では寺のない集落も多く、薬師堂、観音堂などの小堂がその機能を代替し、寺院のある集落でも、病気平癒や子安といった生活に密着した願いは、これらの小堂で祈られていました。
小八賀川沿いの寺のない集落のひとつに板殿があります。山中の高みにぽっかり開けた別天地で、集落の背後に伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)とその脇に薬師堂があります。薬師堂には、薬師如来立像を中尊とし、阿弥陀如来坐像および観音菩薩と考えられる坐像を脇侍とした円空の三尊が伝わります。飛騨の人々は、円空のことを「鉈ばつりのエンクさん」と親しみを込めて呼んでいますが、こちらの薬師如来さまは、まさにほとんど鉈一丁で一気に彫りあげられ、当時病に倒れても祈るしか術のなかった人々に、誰でも救ってくれそうな大きな手と温かな微笑を向けられます。薬師堂の外に出ると、乗鞍岳が大きく迫っていました。
また、人々の祈りのうち、雨乞い、豊作祈願、火伏などは神社が担うことが多く、特に江戸時代の飛騨地方には、各村にさまざまな社があったことが、江戸時代の地誌『飛州志』(注)に記録されています。小八賀川沿いでは、板殿をはじめ各集落に伊太祁曽神社があり、円空の像が伝わります。谷が深く狭い小八賀川沿いは、特に耕作において日照が重要で、日が昇る方角にある乗鞍岳を、日嶽とも呼び崇め、円空当時は日抱尊を祀る社が各村にありました。しかし、天保年間、国学者の田中大秀が、「小八賀川沿いの多くの日抱尊というのは伊太祁曽がなまったものであり、林業の神五十猛大神を祭神とする伊太祁曽神社が正しい。」として、改名させたといいます。そしてさらに、明治39(1906)年の明治政府の神社合祀令を経て小祠などを統合したのが現在の伊太祁曽神社になります。円空は、村々を回りながら、さまざまな願いに合わせて神像を造り、これが多くの祠に祀られていたのでしょう。合祀後の伊太祁曽神社には、多様な神像がまとまって残ります。
注:飛騨代官長谷川忠崇(元禄7(1694)年生~安永6(1777)年没)が将軍徳川吉宗の命を受け編纂されたとされる。忠崇は、公務のかたわら子供の忠雄、一徳、忠知の協力で4年の調査を経て完成したが、吉宗が死去し報告されず、その後忠崇も病死したため、文政12(1829)年、一徳の孫一陽が校訂浄書し幕府に献納したと言われている。飛騨地方の歴史や風土をくまなく調査した同書は、飛騨地方の歴史を知る上で欠かせない文献とされ、円空に関しても「釋圓空之説」として詳述している。
画像3-1(左):板殿薬師堂蔵 薬師如来立像(102.3cm)、3-2(右)薬師堂の外には乗鞍岳が迫る
神通川の上流部である高原川は、乗鞍岳から流れ出し、途中で笠ヶ岳などを水源として持つ左俣谷と槍ヶ岳や穂高岳などを水源として持つ右俣谷が源流の蒲田川を合わせる日本有数の急流で、暴れ川でもあります。深い谷に河岸段丘が形成された川沿いの土地は、古来高原郷と称され、もっとも大規模な河岸段丘である本郷平を中心とする上高原郷(現在の高山市上宝町および奥飛騨温泉郷)と、戦国時代高原郷を支配した江馬(えま)氏の居城の置かれた下高原郷(現在の飛騨市神岡町)に分かれます。円空は、貞享年間においては、そのうち乗鞍岳などのある上高原郷を中心に活動したと考えられます。
千光寺から上高原郷の中心地本郷平へ出るには、国見山(1,318m)の肩を通る駒鼻峠を越えるルートがあり、途中の丹生川町折敷地の長寿寺には、円空の薬師如来をおさめた薬師堂の貞享2年12月8日の棟札が伝わります。また、駒鼻峠は、勅撰史書『続日本紀』に登場する名馬大黒にまつわる場所とされ、円空は「駒の鼻 国見の坂(を) 過(ぎ)ぬれは ろしゑの里の 神かきのにハ」という歌を残しています。呂瀬(ろっせ)は、駒鼻峠の南麓の集落で、金森氏が盛んに開発した金山のひとつがありました。
飛騨北部の高原郷は、歴史的に国境を接する越中国(富山県)の影響を受け、江馬氏が創建した越中国の臨済宗国泰寺末の寺院(禅通寺、永昌寺、桂峰寺、本覚寺、両全寺、圓城寺、瑞岸寺)を、金森氏が宗猷寺の末寺として再興しており、円空はこれらの寺に立ち寄り像を残しています。中でも高原川の最上流に位置する一重ケ根集落の禅通寺には長期間滞在したと思われ、多くの像が伝わります。
一重ケ根には、越中から入ってきた石動山の修験者が草庵を結び、これが後に禅通寺になったともいわれ、同寺に伝わる鎌倉期の作といわれる十一面観音立像は、『騎鞍(のりくら)権現』の本地仏ともされます。永享2(1430)年江馬氏十一代の時直が、国泰寺の久岳祖参禅師を請じ中興開山とし、のちに金森氏によって高山宗猷寺の末寺となっています。この禅通寺を中心とする乗鞍信仰は、一重ケ根からさらに上流の平湯から信濃国境の稜線まで登った地点にある金山岩(2,532m)直下(地形図にはありませんが、この地点を「十国岳」と呼んでいました)の乗鞍権現(騎鞍権現)から遥拝するものでした。円空は、この乗鞍権現から国境稜線をたどって、高原川の源頭付近にある乗鞍岳の大丹生池に至るルートを開拓したと考えられ、『飛州志』には、「昔ハ俗魔所ト稱シテ人ノ至ル事曾テ無カリシガ 僧圓空ト云フ人此山中ニ籠リ居テ若干ノ佛像ヲ造リ池底ニ沈メテ供養セリ 自是以来池ノホトリマデ人ノ登山スルコトヲ得タルト云ヘリ」と記されます。また、円空が乗鞍権現の祠に納めた歓喜天像が、今は禅通寺におろされています。円空の足取りを追って、この乗鞍権現の祠から乗鞍岳までのルートを踏査しましたが、特に大丹生岳から大丹生池に至る部分は現在踏み跡すらなく、背を越すハイマツの藪こぎに難渋し、その労苦がしのばれました。
また、ルートの起点となる平湯は円空の当時から温泉地として知られ、薬師堂には、「雪巌峯大権現大法山下殿宮」の背銘のある薬師如来はじめ7体の円空像が伝わります。十国岳の乗鞍権現祠の下殿という意味なのでしょう。
円空の山岳での修行は長期間の過酷なもので、貞享3年には長野県編でご紹介したように御嶽で6月から8月頃にかけて山籠修行をしたと考えられますし、元禄3年には笠ヶ岳で100日間密行したとの高原郷本覚寺の住職椿宗の記録(『大(カサ)ヶ嶽之記』)が残ります。したがって、乗鞍山籠修行は、貞享2年夏と推定されます。円空学会編集『円空研究4 特集飛騨』の上田豊蔵氏「上宝村と円空仏」によると、「円空は、平湯では落合屋という旅籠に逗留して病気の療養をされた、と落合屋(現中田土産品店)の老婆から幾度となく聞かされている。落合屋のあった場所は平湯部落のはずれで、乗鞍より流れる毛受母川と安房峠より流れる安房谷の合流点である。」とあります。おそらく長く過酷な山籠修行で消耗した体を温泉で癒しながら造像したのでしょう。
また、円空は、平湯、一重ケ根をはじめ、高原郷の各集落の民家に観音菩薩などの小坐像を多数残しています。高原川沿いは洪水や山崩れなど自然災害の多い地帯ですが、それでも多くの小像が伝わることから、円空は逗留していた寺などで、まとめて小像を造り、ほぼすべての家々に配ったのではないでしょうか。残された円空像のリストを片手に、高原川沿いの河岸段丘上にある各集落へ向け登り下りを繰り返していると、「當国一万体」の造像というのにも、実感がわいてきました。
画像4-1(左):乗鞍魔王岳から見下ろす大丹生池。4-2(右):大丹生池から乗鞍岳方向を仰ぐ
高原川の支流で、飛騨山脈への登山口がいくつも開かれた蒲田川沿いにも、円空の像が残されています。高原川と蒲田川が合流する地点にある村上集落の村上神社には、高原郷では最も大作となる十一面観音立像(90.4㎝)が伝わります。蒲田川も高原川も、飛騨山脈から直接流れ出る暴れ川で、この像はその水を治める祈りを込めて造られたのではないでしょうか。
村上の対岸、栃尾から蒲田川に沿いに遡行していく道は、平湯街道の中尾峠越えのルートで、栃尾、神坂などの集落にも円空の小像が伝わります。そして、蒲田川沿いを離れ、当時飛騨側では硫黄岳と呼ばれた焼岳(2,455m)の肩を通る中尾峠へと向かう高原に、中尾集落(奥飛騨温泉郷中尾)があり、地蔵堂に円空の地蔵菩薩立像が、民家に観音像が1体伝わります。ちなみに、中尾は、近代登山草創期に名山岳ガイドを輩出した村としても知られます。
円空は双六川沿いの金木戸集落観音堂にあった十一面観音立像(実際には六面)に、「頂上六仏 元禄三年 乗鞍嶽 保多迦嶽 □御嶽(於御嶽と宛てて笠ヶ岳という説がある) 伊応嶽(焼岳の飛騨側の呼称) 錫杖嶽 二二五六嶽(四五六嶽:双六岳)」と記しています。焼岳(伊応嶽)には、この中尾村から登ったと考えられ、また、穂高岳(保多迦嶽)も、稜線をさらに北にたどり登ったのではないでしょうか。また、中尾の対岸には、峻険な岩肌を見せる錫杖岳(2,168m)が向かい合うように迫ります。円空は、山麓の神坂集落から沢沿いに錫杖岳に登った可能性があります。
画像5:今もクライマーたちの憧れである錫杖岳(2,168m)
『飛州志』の「釋圓空之説」には、「貞享ノ末ニ至ツテ或ル山寺ノ僧ニ空語ツテ曰ク 今世ノ氣運ヲ見ルニ當城(高山)既ニ廢スルノ時近キニアリ不祥ノ地ニハ居ルベカラズト云ヘリ則此州ヲ去ルト見エテ是ヨリ後終ニ其人ヲ見タルコトナシト也」と記されます。或る山寺とは、貞享年間に拠点としていた千光寺と考えられ、実際には元禄年間にも高原郷に入っていることから、円空は千光寺や高山城下を避けたルートをとったと推定されます。
袈裟山千光寺に残した円空唯一の歌集『袈裟百首』は、古今和歌集の歌の一部を「けさ」に置き換えた一見言葉遊びの歌の羅列のようにみえます。しかし、読み込んでいくと、あえて本歌取りとすることで、円空の心情がひそやかに込められていることが伝わり、舜乗を敬愛しつつも行き違いと別れがあったことがうかがわれます。円空は、寺への長い滞在に恩義を感じ、舜乗の無私無欲の人柄に惹かれつつも、次第に「飛(ぶ)神ノ 剱(つるぎ)のかけハひまもなし 守る命は いそきいそきに(急ぎ急ぎに)」という歌にもあるような、限りある人生の中で、人々を造像や山岳修行を通じて守るという自らの使命に突き進む気性―それは「欲」と紙一重である―と相いれないものを感じるようになっていったのではないでしょうか。
「今世ノ氣運ヲ見ルニ當城(高山)既ニ廢スルノ時近キニアリ」とある通り、元禄5(1692)年、6代高山藩主金森頼旹が出羽の上山に転封され、飛騨国は幕府の直轄領になります。これは、幕府が飛騨の豊富な森林資源、鉱山資源を手中にするためだったともいわれます。円空の言葉は、予言というよりも、飛騨を巡った実感を、舜乗に口走ってしまった切実な言葉だったのではないでしょうか。
『袈裟百首』など袈裟山を詠んだ一連の本歌取りの歌以外をのぞくと、円空の和歌は神仏をたたえ、ゆかりの土地や事物などを詠み込むポジティブな歌がほとんどです。その中で、飛騨一宮水無神社の神体山でもある位山(1,529m)を詠んだ次の2首は、心の闇を詠むきわめて数少ない例です。千光寺は水無神社の別当寺も務めていました。
まどひきて 位の山(みやま) 登(る)らん 心の暗(やみ)に 予迷ワすな
目もミへす 已か心ハ 暗ならて 位<クロウ>の山の 烟くらへに
円空は貞享年間の飛騨での最後、世話になり敬愛していた舜乗と気まずく別れて美濃方面へ戻る帰路、益田街道の脇街道である律令時代の東山道に重なる位山街道をたどり、千光寺の方を振り仰ぎながら、その行き場のない心を詠んだように思われてなりません。
<参考文献> 長谷川忠崇著『飛州志』
円空学会編『円空研究4 特集飛騨』
小島梯次氏著『編年・資料 円空仏・紀行Ⅰ』
上宝町教育委員会編『かみたからと円空』
木下喜代男氏著『飛騨の乗鞍岳』
<注意> 画像の無断転載を固く禁じます。
(次回は、2025年9月1日富山県編を掲載予定です)
RELATED
関連記事など