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立山信仰の世界へようこそ!【連載9】“オンバサマ”に寄せたこころ
2026.04.25
みなさん、こんにちは。富山県[立山博物館]館長の高野です。
立山山麓の芦峅寺には、うば尊という山の神の像がまつられています。(「うば」は女偏に3つの田という特殊な漢字で表記しますが、本文ではひらがなで表記します)
芦峅寺の人びとは、敬愛の念を込めて「オンバサマ」と呼んでおり、今も地元の女性から篤く信仰されています。今回は「オンバサマ」とその信仰を紹介しましょう。

うば尊像(永和元年墨書、富山県指定文化財、芦峅寺閻魔堂蔵)
うば尊は、老婆の姿をしており、乳房を垂らし、片膝を立てて坐しています。なかには三途の川のほとりに坐る奪衣婆(だつえば)の姿に近いものもあります。
かつては「うば堂」のなかに、本尊として3躰、その両脇に江戸時代の日本の国数と同じ66躰のうば尊像がまつられていたと伝わります。しかし、明治時代初めにうば堂は破却され、多くのうば尊像も散逸しました。現在は閻魔堂と立山博物館に24躰がまつられています。
うば尊像がいつからまつられ始めたのかは定かでありませんが、現存最古のうば尊像には「永和元年六月日 式部阿闍梨」の墨書があり、南北朝時代の永和元年(1375年)にはまつられていたようです。
江戸時代の百科事典の『和漢三才図会』には、立山開山者の慈興上人(佐伯有頼あるいは有若)の母と紹介され、立山権現の母との伝承もあり、母神としての性格をもっています。
また、芦峅寺日光坊の「芦峅うば堂大縁起」では、一切諸仏衆生の母であり、左手に五穀を納め、右手に麻の種をもって飛来したとしており、食と衣服の恵みをもたらす象徴としての性格もあります。
このように、うば尊のもつ性格はじつに多様です。元々は、芦峅寺の農耕民がまつる、うば谷川の水の神であり、猟師がまつる大日岳の山の神でもあり、やがて仏教の影響で「うば神」から「うば尊」になり、大日如来の化身とみなされたのではないかとの研究者の見方もあります。

像底にみえる永和元年の墨書

うば尊像(富山県指定文化財、芦峅寺閻魔堂蔵)
江戸時代、芦峅寺のうば谷川(現:うば堂川)左岸に「うば堂」が建っていました。
江戸時代のうば堂は、加賀藩御用大工の山上善右衛門が記した図面から桁行(けたゆき)五間(約9m)、×梁間(はりま)四間(約7m)の平面規模で、入母屋造りであったことがわかります。
うば堂は、天明年間(1780年代)に火災で焼失しました。その際、本尊の3躰は焼失をまぬがれましたが、脇立の像と荘厳の飾りなどが失われました。うば堂は加賀藩の御普請所(藩費による工事場所)であり、天明7年(1787年)に再建されています。再建以降のうば堂に関する「勧進記」や「縁起」が多くあることから、復興費用を集める勧進活動が盛んに行われたとみられます。
現在、うば堂の付近には、昭和40年代に整備された「うば堂基壇」があり、天保15年(1844年)に寄進された手水鉢(ちょうずばち)がその前に置かれています。

立山曼荼羅大仙坊A本 うば堂の部分(芦峅寺大仙坊蔵)

うば堂復元模型(立山博物館のジオラマ展示)
武将たちも篤い信仰を寄せてきました。文正元年(1466年)、越中守護代の神保長誠(じんぼながのぶ)は年貢銭をうば堂へ寄進しています。天正年間には越中を支配していた佐々成政が2度にわたって燈明銭を、加賀藩の前田利家も100俵の地を寄進しています。
うば堂での重要な儀式に「お召し替え」(おめしかえ)があります。毎年一回、うば尊の召し衣の交換を行うもので、江戸時代は61歳以上の老女7人が斎戒して正月8日から苧をつみ、機で織り、2月5日に仕上げ、2月9日に開山堂で拝んだ後に「お召し替え」を行いました。春迎えの時期に新たな衣に交換することで、うば尊の活力を更新し、山への感謝をささげる厳粛な儀式でした。現在は3月13日に木綿のさらし布で衣をつくり、芦峅女性の会などの手により「お召替え」が行われており、今に息づく立山信仰のすがたを見ることができます。
この「オンバサマのお召し替え」は令和6年3月に「国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択され、次代に守り伝えるべき貴重な伝統行事と評価されています。

お召し衣を着たうば尊の姿

うば堂基壇から立山を望む
次回は、立山芦峅寺における女人救済の法会「布橋灌頂会」(ぬのばしかんじょうえ)について紹介します。引き続き、連載にお付き合いいただければ幸いです。
◎オンバサマをさらに詳しく知りたい方は、特別企画展図録『立山の地母神 おんばさま』および『うば尊を祀る』がオススメです。購入方法などについては、立山博物館(076-481-1216)までお問い合わせください。
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